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学問が与えるもの

あんたは自分がガキンチョの頃に放物線なるものを習ったときのことを覚えているかい?

その名が示すように、放物線ってのは物を投げたときにたどる線ってことなんだけれど、実際には空気抵抗だとか諸々のイレギュラーが入るからまんまにはならない。

それでもだよ。
中学生の俺としては中学生の習う知識で世の中で起きる動きを説明できるってのはワリカシショックだったわけよ。

だってさ。
数学って言うヒトが考えた理屈で世界っていうわけの分からんものを説明できるって言われたわけじゃん。

中学生の頃ってさ、世の中に無限とも思える量の情報があるって思い知らされて自分の無力感を実感できる時期じゃんか。

そのなかでね。
自分が操ることが出来る知識で世界の一部を理解できるってのがたまらない感動を俺に与えてくれたんだよ。

今回は学問と世界をつなぐ体験を思い出してみる回だ。

ちっとガキンチョの頃の感覚を一緒に思い出してみようぜ。

学問と世界がつながっているってことを印象に残してくれた作品

まあ、まずは放物線だよな。

この放物線って数学の知識が実際の世界とつながっているってのを印象付けてくれた作品がある。

坂本龍一さんの訃報のときにも触れたオネアミスの翼だね。

この作品の中でこんな台詞がある。

投げられた石は、地べたに落ちる。――当たり前のことだな。
この石を、地面と水平方向に、加速してやる。――ずっと、遠くに落ちる。
これをさらに、うんと加速する。その石の速度がある一点を超えた時、地平線の向こう側へ果てしなく、落下し続けるようになる。
これが、人工衛星だ。
上げるんじゃない。地球の丸みに沿わせて、落っことすんだ。

出典:オネアミスの翼

このセリフを最初に聞いた時点で、俺は数学という学問を学べていたことに感謝をした記憶がある。

なぜって?
ヒトが世界の構造をどう理解してきたのかってことを感覚として理解出来たからなんだよ。

もちっと言えば、俺たちは世界を理解して良いって神様に言われた気がしたってことかもしれない。

中学生の俺にとって世界の不思議ってのは途方もない未知の世界だった。

その世界の一端が普段学んでいる放物線という知識で表現できる。
その感動って共感できるかい?

世界を表現する魅力

で、オッサンになった俺としてもだよ。

世界を表現していきたいって魅力は俺を捉え続けているわけだ。

それは数学だけじゃなくて、日々の俺の発信でも言えると思う。

ちと形は違うかもしれないけれど、毎日あーだこーだと世の中のことだったり、自分のことを書き連ねるのも、俺にとっての「世界」を表現したいって側面はあると思うしね。

あんたもなんかしらかの発信をするときってさ、あんたの見える世界を形にしたいって思いがどっかしらかにあるだろ?

なんとなくだけれど、今の俺が世界をどう捉えているのかってのを記録していきたいってのもるかもだけどね。

世界を理解する魅力

いや、仮にだよ?

俺らが学問を学ぶ理由ってのが「世界を理解したい」ってのが理由だとしてだよ。
それってなんの意味があるんだ?

いや、意味だと個人ごとに価値観が変わってくるから議論にならんか。

世界を理解することで俺たちは何を生み出せるか………かな?

例えばさ。
冒頭触れた放物線とものの落っこちる挙動の話があるじゃんか。

こいつを理解していたことで何を俺たちは生み出せるのか?

一部のヒトは人工衛星を生み出すことが出来るかもしれない。
でも大多数の俺たちは人工衛星にかかわることすら出来ないってのが現実だ。

それでもさ。
中学生の俺は放物線に魅力を感じたわけだ。
あのめちゃくちゃロジカルな動きが世界で実現しているってことに感動したわけだ。

身の回りで起きている、実に理不尽な出来事も、結局はこの実にシンプルなロジックの積み重ねだって思えたわけだ。

今考えてみるとだよ。
俺が今の世の中の理不尽に耐えることが出来たのもこのことに頼れているからってことじゃないかって思うんだ。

なあ、あんたはどう思う?

学問が俺たちに与えてくれたものってなんなんだろうな?

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