子どもの挑戦と大人の意見
あんたも「あ、これ同調圧力に従っているだけであんまし考えての発言じゃないよな」って誰かの言葉を感じることってあるかい?
いや、実際のところだよ?
この日本という国がある状態を考えるとだ。
地震は起きるし、台風は来るし、火山は噴火するってんで、ワリカシ世界の中での有数の自然災害に見舞われる土地なんだよな。
それ故にヒトが協力していかないと行けないから、この同調圧力ってのが生まれるってのは仕方ないというか必然な部分があると思う。
でもだよ。
その同調圧力を子どもたちにまで求めるのはいかがなものかって感覚も俺たちは持っているわけだ。
それと同時に、子どもだから無条件にチャレンジを成功させるべく大人は動くべきだって感覚も持っている。
今回は子どものチャレンジと大人の意見について考えてみる回だ。
まあ、いつも通り正解なんてものはない話かもしれないけれど付き合ってくれよな。
子どものチャレンジに対して意見を言うこと
今回のこのnoteにも刺激をもらえたnoteがある。
なんつーか、取り上げすぎて申し訳ないくらいのももまろさんのnoteだ。
なんだろ?
感覚がシンクロしてるのか?
#キモいオッサン
でだよ。
ももまろさんのnoteで取り上げられているのは「さんぽセル」っていう小学生が立案した商品なんだよね。
我が家の息子も日々のランドセルの重さに対してぼやきまくっているって姿を俺自身眺めているわけだよ。
その解決方法として、キャリーバッグみたいにランドセルを運べればよくね?って発想の元商品化されたものらしい。
はは~ん。なるほど。
理にかなっているように見える。
ところが、この商品に対して大人たちの意見として「いかがなものか」ってのが出ているんだそうだ。
例えば、通学中に両手が開放されていない状態は危険回避をしにくくするんじゃないか。
とか
そもそも重いランドセルを背負うことそのものが教育じゃないか。
とか
当然その大人の意見には賛否両論あるものだとは思う。
だって、俺だってこの商品を見たときに「雨の日は大変そうかもなぁ」とか思うのと同時に「確かに息子は毎日のようにランドセルが重いってぼやいているよなぁ」って思うからね。
子どもたちが世界の意見に向き合うってこと
で、この商品を生み出した子どもたちはどうしたのか?
政府に商品をアピールしたんだそうだ。
こんだけ子どもは困ってますよ。
こんだけ子どもがこの商品で助かりますよ。
そう言う風に文部科学大臣に商品を送りつけてアピールしたんだそうだ。
なんかそれを聞くとさ。
無条件でこの子どもたちを応援したくなるやつじゃんか。
この子どもたちの行動力ってのは称賛に値すると俺も思うし、そもそもなんでそんなに重い教材が必要なんだって話になるじゃんか。
いや、でもちょっまてよ。
※木村拓哉風
目的は子どもたちが「どうやったら健全に育つのか」だべさ?
そもそも俺たちは「健全に育つ」ってことを言語化出来てんのか?
子どもの健全な育成
まず大前提から言えば、俺たちは子どもの教育に「正解」なんてものを持っていないってのが現状だ。
俺たちを育ててくれた親の世代の教育と、今の子どもたちが受けている教育には違いがある。
それでも、俺たちが不正解な世代と認識されることもないし、今の子どもたちだってそれは同じだろう。
それと同時に「これこそが正解な育ち方だ」なんて世代は未来永劫生まれることはないだろう。
俺たちヒトは未来永劫「子育て」というものに対しては無知であり続けるんだと思うんだよ。
その前提で考える。
さて、俺たち大人は子どもの考え出した「何か」に対してどう向き合っていくのが正解なのか?
子どものアイディアに対して感覚の赴くままに否定を突きつけることか?
子どものアイディアに対してそれが生まれたことを無条件に称賛することか?
否。
そのいずれもが否だ。
必要なのは「課題を共有して一緒に考える」ことじゃんか。
これは俺の意見に過ぎないけれどもさ、子どもに最も必要なものって「誰かと一緒に考える」って経験なんじゃないか?
ヒトが生きていくなかで最も重要なのは「仲間と協力する」ってことなのはヒトという生き物が生き残ってきた歴史が証明している。
ならさ。
大人が子どもたちにかけられる言葉ってさ。
「一緒に考えよう」
しかなくないか?
なあ、あんたはどう思う?
俺たちヒトは子どもという未成熟な状態とどう向き合っていけば良いと思う?