愛は俺たちの手に余るが俺たちが追い求めるものだ
「愛が必要だ。」
唐突だが、このセリフなんだかわかるかい?
これは、宇宙戦艦ヤマト2202でガトランティス(敵な)の親玉のズォーダー大帝が言ったセリフだ。
今日は、このセリフと共に「愛」を考えてみようじゃないか。
何?いいオッサンが何が愛だ?
バカを言っちゃいけない。愛をなくしたら俺たちオッサンは何だ?ただの歯車じゃないか。
俺たちは愛を持っているから歯車じゃなくて、家族の一員なんだぞ?そのへんをちっと考えてみようや。
ズォーダーの言う愛
宇宙戦艦ヤマト2202を見たことのあるあんたなら同意してもらえると思うが、あの話、なにげに難しい。
元祖「さらば宇宙戦艦ヤマト愛の戦士たち」では、愛を全く理解しないズォーダーを否定するという形で物語が進行していく。
愛を知らないガトランティスはとりあえず経路上にある文明をことごとく攻撃し、隷属させ、侵略者の名の示すとおりのことをしまくっているって設定だ。
ところが、宇宙戦艦ヤマト2202のガトランティスはだいぶ違う。愛を持っていないとはとても思えない。
むしろ愛を論理的に体現しようとしているようにさえ見える。
虚しい。実に虚しい。彼らの命に何の意味があったのだ。その苦痛に報いる、どんな意義が人の生涯にあるのだ。やはり愛が必要だ。この宇宙から根こそぎ苦痛を取り除く、大いなる愛が。そうは思わんか。テレサ。
これはズォーダーの2202での第1話でのセリフだ。
ズォーダーはこのセリフで「虚しい」と言っている。
何が虚しいのか?
それは生きる意味と苦痛を天秤にかけたときに、苦痛が上回るのであれば、その意味は何なのか?という問いかけに見出すことが出来る。
つまり、一個人の幸せと一個人の苦しみを天秤にかけると、大帝は苦しみが上回るとズォーダーは言っているわけだ。
これを解決するためには、苦しみを感じること、すなわち命を止めるしかない。
それがズォーダーの言う「愛」だ。
ズォーダーの「愛」への俺たちオッサンの反論
俺たちオッサンは、ズォーダーの「愛」を正しいと思うだろうか?
まあ、一個人の苦しみと幸せを天秤にかけると苦しみが多くなるってのは、そうかもしれない。そうじゃない人もいるかもしれないがな。
だが、それでも、と俺たちオッサンは思う。
俺たちは俺たちの周りのやつが幸せになるために生きているんじゃないのか?とね。
家族が幸せになってほしい。
親戚が幸せになってほしい。
友人が幸せになってほしい。
知り合いが幸せになってほしい。
まあ、そもそも自分がどうなれば幸せになるかなんてことを定められているオッサンはそうはいない。だから、より良き方を選ぼうと必死にあがいているわけだからな。
だから俺たちオッサンはズォーダーにこう言えるんじゃないか?
「俺たちが生きていることに意味をもたせることは出来ないってことは証明できない。(出来ない)を証明することは悪魔の証明ゆえに、出来ないからだ」とな。
だが、ズォーダーは言うかもしれない。加藤はどうなのだ?と。
2202では加藤三郎が家族のためにヤマトを窮地に追い込む。
加藤はその瞬間にこう絞り出した。
ごめんな。父ちゃん、地獄に行くわ。
加藤は選んだ。地獄への道を。
なぜか?
家族に幸せになってほしいからだ。だが、加藤の選択は家族に幸せにつながるという論理的な証明ができるか?と問われればそれは否だ。
だが、それでもなお、加藤三郎の選択に理解が出来ないと言い切ることは出来ない。
俺たちは加藤と同じ立場に立ったときに、地球のためという大義名分のために息子を見殺しにすることに、耐えることが出来ないからだ。
俺たちが、歯車であることを拒否して、家族の一員であることを望む以上は、俺たちは俺たちのエゴで家族を守るだろう。
結局は、加藤の行動はズォーダーに言わせれば、人類への愛の欠乏と言われるのかもしれない。
たしかに俺たちオッサンは局所的なものの見方しかできないことがある。
家族のため、会社のため、仲間のため。
俺たちは俺たちが見える範囲の幸せを追い求めてしまうわけだからな。
まとめ
俺たちにはズォーダーの「愛」ほどの覚悟もなにも無いかもしれない。
でもさ、目の前の人が幸せになってほしいってのは俺たちの原点だと思わないか?
眼の前で困っている人がいたら手を差し伸べたくならないか?
それではダメなのか?
あんたはどう思う?
俺たちは誰を幸せにすればいい?
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