
言葉の「かせ」と「自由」と
紋切り型って言葉、あんたはどのくらい味わったことがあるだろう?
世の中には紋切り型の言葉が溢れている。
今度新発売の~だの、今までにない~だの、今朝○○で~だの、テレビやネットには決まりきった言い方が跳梁跋扈している。
なんで俺たちはこんなにも自由な言葉をこんなにも型にはめて使っているんだろうな?
今回は、紋切り型の言い方についてあれこれ考える回だ。
俺たちのように、なんかの表現をする者にとって避けて通れない話題だと思わないかい?
紋切り型という言葉
紋切り型って言葉をあんたはどのくらい日常使いする?
ぶっちゃけ、あんまり使わないんじゃないかね?
それほど、俺たちはものの表現方法として自然に紋切り型を使っているってことなのかもしれない。
念の為、辞書で引いてみた。
① 紋を切り抜くための型。
② 物事のやり方が一定の様式にのっとっていること。きまりきっていて新しみがないこと。 「 -のあいさつ」
出展:weblio
この一定の様式ってやつがポイントのようだ。
俺たちは意識するまでもなく、俺たちの言葉をなにかの型にはめる傾向があるってことなんだろう。
なぜ紋切り型になるのか?
次に考えてみるのが、なんで俺たちは俺たちの言葉を型にはめようとするのか?
特にどういうときに俺たちは俺たちの言葉にカセをはめようとするのか。
用例にある「紋切り型のあいさつ」ってやつにヒントがあるような気がしないかい?
俺たちは、会話の入り口に紋切り型を使うってことだ。
他にも結婚式の祝辞だとか、校長先生の話だとか、国会答弁だとか、ニュースの原稿だとか。
オフィシャルになればなるほど、俺たちは紋切り型の言葉を使う傾向がある。
もはや、それは礼儀というジャンルの話になるんじゃないか?
つまり俺たちは、礼儀をもって俺たちの言葉にカセをはめているってことになる。俺たちの言葉に自由をもたせることは、相手にとって失礼ということだ。
なんで失礼にあたるのか?
それは「わかりやすさ」ってことなんだろうと、俺は思うんだ。
自由がもたらすわかりにくさ
実際、ニュースの原稿は本当に紋切り型の集合だ。
今朝、○○で強盗事件が発生しました。だの、今夜は寝苦しい夜となりそうです。だのな。
面白みが無い、とあんたは言うかもしれない。でもこの面白みのない表現は確実に俺たちに情報を伝達する意味がある。
俺たちは、紋切り型の言葉の中から、重要な言葉をチョイスする型を自然に持っているからだ。
紋切り型の言葉は、その情報のエッセンスが表現される箇所が決まっている。それは言い換えれば、そこさえ聞いておけばその言葉を聞く側にとって十分な場所が予めわかっていることを意味している。
本来は、その重要な部分だけを言葉にすれば良いようなものだが、それだと話を聞く準備が聞く人ができない。
紋切り型ってのは、聞く人が聞く準備をできつつ、聞くポイントを常識というルールに則って共有していけるツールってわけだ。
逆に言えば、このツールを使わないってことは、あんたの言葉が誰かに伝わるのに、ハードルが上がってしまうってことになる。
だとすれば、俺たちの言葉はカセにはめないと、誰かに伝わらないって事になりはしないか?
自由と表現
実際、俺たちの言葉は自由だ。
だけれども、自由な言葉は相手に伝わりにくいってのも多分事実だ。
だから俺たちは表現するにあたって言葉を選ぶ。
このnoteだって、あんたに伝わるための言葉を選んだ結果だ。
そうは見えないかもしれないけどな。
必要なのは、伝えようとする意思。
自分の考えや感覚を伝えようとする意思だ。
そのために紋切り型という制約を自らの言葉に与える。
それはあんたの言葉を誰かに届けるために、コミュニケーションという旅路を歩ませるための靴を履かせるようなものだ。
俺たちの言葉は、ネットという世界でありとあらゆる場所に届くようになった。
それ故に、俺たちの言葉はだれもが理解しやすい型にはまっていなければ、誰かの心には届きにくいってことなのかもしれない。
でも、それでもだ。
俺たちの言葉は誰かに届く。
それは、型にはまった何かじゃなく、あんたの思いが届く。
そのために俺たちは俺たちの言葉に足かせをはめるんだ。
あんたはどうだい?
伝えたい思いを、相手が理解できる型にはめることはできそうかい?