大河ドラマ『篤姫』の神回、第36回「薩摩か徳川か」、1回に見どころをこんなに詰め込んでよいのかと息をのみ、涙する。
演劇でもテレビドラマでも時代劇でも、括りはどうであれ、一定の人たちの間でときどき話題に上るのが、歴代大河ドラマの中で何が一番好きか、という永遠のテーマ。もちろん、年代や、そのときどきの実生活の忙しさ等により、選択の対象となる作品群には人によって違いはあるが、物心ついた頃以降の大河ドラマでタイトルや主演俳優すら聞いたことがないという作品がある人はそうそういないので、良い議論の種になる。
<大河ドラマ、マイベスト5はこれだ!>
ぼくの一番のお気に入りは、迷いなく、2008年、宮﨑あおいさん主演の『篤姫』だ。ベスト3やベスト5を決めろと言われるとかなり迷うが(と思って、先日、自分のベスト5を決めた。他の4作品は、順不同で『毛利元就』、『利家とまつ』、『平清盛』、『いだてん』。)、1番は何かと問われたら、迷うことなく『篤姫』だと即答できる。天璋院篤姫という一人の女性の波乱の人生を追う文字どおり「大河ドラマ」としての面白さはいわずもがな、生家である今和泉島津家や島津本家、そして大奥や徳川将軍家の「ホームドラマ」にスポットライトを当てた構成も案外新鮮だし、その中で展開されるある種「個人的な」エピソードの数々には頻繁に涙を誘われる。幼時から70代で亡くなるまでの長いタイムスパンを演じきった宮﨑あおいさんはもちろん、脇役陣も素晴らしい。このドラマを語れば高橋英樹さんや松坂慶子さんの名前が挙がるのは当然だろうが、ぼくが特に推したいのは、一部を挙げれば、生家の両親の長塚京三さんと樋口可南子さん、大久保利通の原田泰造さん、その母・真野響子さん、そして、大奥総取締・瀧山の稲森いずみさん、などなどなどなど。
<ぼく的神回は、第36回「薩摩か徳川か」>
と、ドラマ自体の魅力を語ると、永遠に終わらない気がするので、今日は、今の言い方では「神回」と思われる第36回について。天璋院篤姫の人生には、ターニングポイントがいくつもあり、その度にこのドラマでは大きな感動が生まれるのだが、第36回は大きな出来事が起こるというより密度の高さが魅力。
<名シーンは、火にくべられる白薩摩…>
第一に、ぼくが『篤姫』で一番の名シーンだと思っている終盤のシーン。薩摩の島津久光の挙兵が伝えられ、動揺する幕府・大奥の中で、遂には愛息の将軍・家茂にまで薩摩との内通を疑われた天璋院は、薩摩の思い出の品々を火にくべていく。「これは、生家の父・忠剛が愛した白薩摩…」と台詞まで思い浮かぶほど、ぼくとしては涙、涙のシーン。知らせを受けた将軍・家茂(松田翔太さん)が駆けつけて止めると、「私は徳川の人間です。…薩摩など知らぬ! これは、その証です…」と鬼気迫る表情の天璋院。何度見ても涙が止まらない。これを見る稲森いずみさん演ずる瀧山の眼も素晴らしい。
<だって、篤姫の数奇な運命をこれ以上端的に示すシーンはないもん>
薩摩に生まれ、幕政改革に乗り出したい島津斉彬の養女になり、将軍家に輿入れした天璋院が、幕政改革を訴える薩摩と徳川将軍家との板挟みになるのは必然ではあるのだけれど、天璋院その人にとっては、いわばたまたまその時代にその環境に生まれたというめぐり合わせの産物。自分の力だけではいかんともし難い状況に置かれた一人の女性の姿がそこにある。自分の内心(に邪念がないこと)を周囲に分かってもらうためにはどうすればよいか。ぼくたちの人生も、この悩みの繰り返しなのではないかと思うと、天璋院の思い悩む姿は他人事とは思えないし、思い出の品々を火にくべて温かな過去の記憶に別れを告げるという決心の重みは、いかばかりか。最後に手を差し伸べる将軍・家茂に対して天璋院が決然と放つ「私は徳川の人間」という言葉は、なによりも強く天璋院の覚悟を示す直球だ。ここまでしないと真意を分かってもらえない天璋院、天璋院に対する疑念を晴らすためにここまでさせてしまった周囲。このシーンが終わるときには、避けようのない哀しみが雨の日の湿気のように登場人物のひとりひとりにまとわりつく。その後の長い展開を考えれば、雨降って地固まるではあるのだけれど、それゆえにとても印象深いシーンなのだ。
<中盤には、寺田屋のシーンもあり、更に泣ける>
このシーンがあるだけで素晴らしい回である上、中盤には、かの「寺田屋事件」のエピソードまで出てくるので、たまらない。寺田屋事件とは、幕府の政策にお墨付きを与える朝廷の要人の暗殺計画を立てた薩摩の志士たちを薩摩藩が成敗したという事件。薩摩の者同士が斬り合うという衝撃的な事件だが、朝廷から京の市中警固を命ぜられていた薩摩藩は、大事を防いだとして朝廷からの信頼を得ることになる。『篤姫』では、事件後、的場浩司さん演ずる志士の頭目・有馬新七の手紙が見つかり、志士たちは、最初からそうして薩摩藩の踏み台になることで薩摩藩が目指す幕政改革に身を捧げたことが明らかになる。山口祐一郎さん演ずる島津久光が、その手紙を胸に抱いて漏らす「許せ…」という悲痛な声がいつまでも響く。
<この主題は、なんだかんだ永遠。「寺子屋」と同じ。>
こういうシーンは、よく「現代の感覚では理解されにくい」などと言われるけれど、果たしてそうだろうか。自分自身の人生よりも大きな目標(と自分が思うもの)に対し、人生そのものを捧げるという心意気に、賛否はともかく、人は胸を打たれるものではないだろうか。そして、このドラマにおいて、島津久光は、主君である自分の目的のために家臣に命を捨てさせてしまったと悔悟し、より強く幕政改革を誓うのであるが、取り返しのつかないことになったことを受け止める久光の葛藤に想いを馳せれば、それもまた感動を呼ぶ。江戸時代以来、文楽や歌舞伎の「寺子屋」(菅原伝授手習鑑の一場)における子殺しが一大ドラマたり得て、「現代人には理解できない」と言われながら毎年のように上演されては観客を呼び集めるのと同じではないか。
<是非観てください。もちろん他の回も。>
天璋院篤姫という一人の女性が置かれた境遇に端を発する苦悩と決断、志士の忠誠心と主君の思いとのすれ違い…種類の異なる、大きな感動がわずか45分に詰め込まれた神回、第36回「薩摩か徳川か」。この2つのエピソードのほかにも、苦境に立つ西郷吉之助と大久保利通の固い友情の再確認、大奥における江戸方と京方との間の隙間風、松平春嶽の政界復帰と勝麟太郎の台頭など、ドラマの核となる要素の芽がたくさん盛り込まれ、本当に見ごたえのある回です。『篤姫』、まだまだ語るべきことは多いですが、取りあえず神回は第36回、ということで。