2拠点生活のススメ|第49回|自由であること
子どもの頃から、「自由」なものに、憧れを感じていた。
空を飛ぶ鳥だったり、好きな絵を描いて暮らすアーティストだったり。
けれど、人生50も過ぎると、その裏にある不自由さもいっぱい知っている。
それでも、なお「自由」に憧れを感じるのは、何故なんだろう。
今日のnoteは、そんな「自由」について考えてみた。
初めての自由で味わった挫折
決められたことを淡々とやるというのが、子ども頃から苦手だ。ドリルを毎日やるとか、絵日記をつけるとか、そういうのがとにかく苦手だった。
ある夏休みに、自分の好きなことを調べて発表するという宿題だ出た。いわゆる自由研究というもの、何をしようかと初めてワクワクした。
いろいろ悩んだ結果、大きな海苔のガラス瓶でアリを飼って観察することにした。土の中なので、普段は風呂敷で包んで暗くし、隙間からそっと観察した。
毎朝、その風呂敷をめくって巣が出来ていく様を見るのが楽しみで、夏休みが終わる頃には、瓶の底までビッチリと何層もの巣が出来上がっていた。
夏休みも終わり、ついに研究発表の日がやってくる。
期待に目を輝かせるクラスメイトの前で、ドヤ顔で風呂敷を外すと、そこにアリの巣の姿は無く、ただの土の塊になっていた。
瓶が重くて、学校に着くまで何度も休憩したせいで、アリの巣が崩れ去っていたのだ。
あまりに、衝撃的な出来事・・・。
私にとって初めての「自由」は、大きな挫折と共にあった。
圧倒的な自由を知る
1960年代、日本ではまだサーフィン黎明期に作られたサーフムービー「エンドレスサマー」。そのタイトル通り、夏を追いかけて世界中を旅しながら、ひたすらサーフィンをするというもの。
終わり行く夏のカリフォルニアを後にし、アフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、タヒチ、ハワイと夏を追いかけ、サーフィンに明け暮れるアメリカ人サーファーたち。
エンディングで「人生は短い・・・」というようなナレーションが入る。その言葉にどれほど心揺さぶられたことか。
アメリカ人というのは、どこまで自由なんだと興奮した。
サーフィンをやっている者にとって、こんなに憧れの旅はない。
当時の私が考える「自由」の概念を遙かに凌駕していた。まさに圧倒的な自由。そこに後ろめたさもなど微塵も無い。
だいたい、自由であることの代償として「後ろめたさ」を感じていること自体、自由などでは無い。本当の意味での自由を教えてもらった衝撃の映画だった。
自由とは、叩かれるべきものなのか?
なぜ、自由に後ろめたさみたいなものを感じてしまうのだろうか。
私は60年代初頭の生まれなので、学生運動やベトナム反戦といった世代では無いが、その残り香に憧れた世代。・・・とはいえ、まだまだ今のような多様性が認められていたとは言いがたい時代。
組織や企業といった体制にアレルギーを感じていたし、バックパッカーだったのも、ヒッピー文化への憧れがあった。
自由な国アメリカの幻影を求め旅する男たちが主人公の映画「イージーライダー」リアルタイムで見たわけでは無いが、大きな衝撃を受けたことを今でも覚えている
その自由奔放さゆえに反感を買い、ラストシーンでは理不尽な暴力に晒され、命を落としてしまう。
自由とは、叩かれるべきものなのか。
初めて観たとき、そうしたモヤモヤする気持ちが、いつまでも拭いきれなかった。
自由を求めることが、とても大切だった時代。
自由のために戦うということに意味を感じていた時代。
今の時代は、どうなんだろう?
ネットの闇から吐き出される言葉に「自由」は感じない。
「自由とは、自らに由る」ということ
まだギャラリーをやっていた頃、ミュージシャンや写真家、女子高校生などいろんな人たちの質問を展示するというイベントをやったことがある。
訪れた人は、その質問の周りに自分なりの答えを書いて貼り付けていく。他の人は何を書いているのか、そんな興味も含めて楽しむ展示だった。
私も、質問者の一人として、「あなたにとって自由とは何ですか」という質問を書いたのだが、ある答えの前から動けなくなった。
「自由とは、自らに由るということです。」
そうか、自由というのは、さまざまな環境や要素が整って初めて生まれるものだと勝手に思い込んでいたが、実は世の中がどうあろうと、人がどうあろうと、自由というのは、自らの心が生み出すものなんだ。
何かから解放されるのが自由なのではなく、自分で自分を解放することが自由。
なんだか、妙に腑に落ちた。
今、世界中がコロナという不自由に支配されている。
今こそ、この「自由とは自らに由る」を思い出すときなのかも知れない。