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人は、なぜ旅をするのか?

旅というのは本来、行く必要がない場所に、ふらりと気まぐれで行き、見る必要ないものを見、会う必要のない人に会う行為である・・・。

それなのになぜ、人は旅をするのか?

役に立つとか、立たないとか、そんなことは旅に出る理由にはならない。
人を旅に向かわせる最大の理由は、旅でしか身体に、記憶に、埋め込まれないものがあるから。この埋め込まれるという感覚、言わば精神とも言えるものにいかに遭遇できるか・・・、これこそが旅の最大の魅力と言えるのではないだろうか。

小鳴門海峡の港風景(ワカメ漁に使う錨)

旅で身体に入ってくるものは、SNSやネットで知っていたものとはまるで違う。

旅をするというのは、目で見たもの、見えたもの、歩きながら身体に伝わってきたもの、酒でも食事でも口に流し込んだもの、耳から入ってきた音色、嗅いだ匂い、肌で感じたもの、そのすべてを自分の実感として捉えること。

日常の中では、見えていないもの、感じられていないものが次々と立ち上がってくる。旅とは「日常からの別離」だと言った人がいたが、非日常の時間の中で、日常を送る人々の暮らしを垣間見る、だからこそ感じるものもたくさんある。

どこに行って何を見たかが問題では無く、その旅において、何が身体や記憶に埋め込まれたか、いかなる精神と遭遇を得たか、そうした体験の積み重ねこそが、唯一無二の自分というものを形成する。

旅のない人生ほど、味気ない人生はない・・・。

何よりも旅を愛した伊集院静氏の本にこんな一節がある。

今、日本の大人の男たちは、あまりに軟弱である(中略)

なぜ軟弱なのか?

それはつるむからである。

一人で歩かないからである。「孤」となりえないからである。
つるむとは何か? 時間があれば携帯電話を見ることである。マスコミが、こうだと言えば、そうなのかと信じることである。全体が流れ出す方に身を任せることである。その行動はどうして起こるのか?

孤を知らないからである。なぜ知らないのか? 孤を知るのを怖がるからである。

おじけづく者はぬるま湯に身をかがめていればいい。そうしていても死ぬことはできるのだから・・・。

孤を知るにはどうすればいいか。

さまようことである。

旅をすることである。

そこで何を見るか。そんなことは考える必要はない。旅に出れば否応なしにむこうからやってくる。まずは今座っている椅子、立っている場所を出ることである。

旅人よどの街で死ぬか 伊集院静

大人たちよ、さあ旅に出よう!


ワカメ漁師たちが暮らす、小鳴門海峡の端っこへと向かう細い道の先に隠れるように佇む2部屋だけの小さな宿。大人の一人旅を満たす、それがNOMAyadoです。

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