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かっこよく枯れたい
いいアイデアが浮かんでも、すぐに忘れてしまう。
ただ、思いついたという記憶だけは鮮明に残っていて、気になって仕方がない。何をしている時に思いついた?、とか記憶の糸を辿ってみるのだが、その糸はあまりに頼りなく、少しの力でプッツリと切れてしまうのだ。学生の頃バイトしていた店の電話番号とか、いまさら役に立ちもしないことは沢山覚えているというのに。
すぐメモを取っておけば大丈夫かというと、これがそうでもない。
後から見直してみると、思いついた時の興奮や輝きはすでに失なわれていて、何を輝きと捉えていたのかが思い出せなかったりもする。
結局忘れるというのは、たいした思いつきでは無かったんじゃないか。いいアイデアなら脳の中で自然と反芻し、どんどん肉付けが進みカタチになっていくはずだ。
・・・とかなんとか言って、強がってはいるが、
正直なところ、60歳も過ぎると老いによる機能低下を日々感じざるを得ない。
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宿の隣のガレージには4畳半ほどの小さな畑があり、すでに漁師を引退した老人が毎日のように野菜の世話をしに通ってくる。じょうろ片手にフラフラとおぼつかない足取りでやってきて、親指ほどの小さな大根を愛おしそうに引き抜くと「漬物にすると旨いんだ」と控えめな笑顔で教えてくれる。
彼の姿は、小さな港町の空気に馴染み、溶けこみ、ひとつの風景になっている。
老いるとは、風景になることなのか?
風景になるなんて60歳を越えたとはいえ、いやらしいほどの自己顕示欲を残している私には、まだまだ到達し難い頂のように感じる。老いたる人は、世の中のざわめきから少し遠のいて、ただそこに在る。きっと自意識のありようなんだろうな。
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鳴門に暮らし始め、鳥の鳴き声を心地よく感じるようになった。日差しが温かい窓辺で本を読むせいで、天気にも細かくなった。老いに向かうというのは、個人の生活、いわゆる日々の暮らしそのものへ戻ってゆくことでもあるんだろうか。
最近、柄にもなくカッコイイ年寄りになりたいという気持ちが芽生えてきた。
カッコイイと言っても、見た目の話ではなく、世で言う「いい年の取り方をしてるね」といった類のことである。
世の中に認められるような「老い」を手に入れたいと思う気持ちの表れだろうか?
それとも、やがて消えていくことへの「準備」なんだろうか?
使い込んだデニムやアンティーク家具のように、枯れることがカッコイイ・・・。
そんなじいさんになりたいものだ。
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