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言葉に心が欲しい。

 宣誓というのはどうしてするのでしょうか。その人が本当に宣誓したい内容なら聞いてみたいと思うけれど、何をいうのかが決まっていたりすることを宣誓されても、と思う。
 たまにはスポーツの宣誓で「全員ぶっ倒してやる」という物騒な宣誓をする人がいてもいいと思うし「勝つことには興味がありません。楽しい試合ができればいいです。仲間と一緒に」という適度に浮かれているだけの宣誓があってもいいと思う。
 私は文化としての敬語がとても好きです。形式的なものであまり意味を感じないけれど、その中にある心の部分というものがなんとも愛らしい。でもその心を失って、敬語さえ使っていればいいのだという思惑が見え透いているものは好きじゃない。
 それと挨拶の最初にある文で時候の文というのでしょうか、それを聞いているときにわざわざその風景を想像します。けれどふと思うのは、どれだけの人がその風景に思いを馳せてその文章を書いているのでしょうか、よいうこと。あまりにもほとんどの人が使っていて、ときには一字一句違わない定型文を使っていて、そういうことに興味の無さげな人が使っていて、思うのです。もしかしたら、時候の文も死んでいっているのかもしれない。
 そういうことと同じように、来賓挨拶というものもあまり好きではありません。あたかも私たちの学校生活を近くで見ていたような口ぶりで語られるお祝いの言葉にはときにその不自然さに吐き気が。ええ、汚い言葉が出てきそうです。「知ったような言葉を吐くんじゃねえ」という言葉を本当に出したことはありません。けれど、何度頭の中でシミュレーションをしたことでしょう。どうせなら「私はあなたたちの生活を運動会のような学校行事のときにしか見ておりません。ですのであなたたちのことをあまり深くは知りませんが、あの学校行事を楽しむあなたたちの姿を見て自身の学生時代を思い出すことができ、不思議な追憶を体験しました」みたいなことでも言ってくれればいいのにと思う。公的な挨拶だからといって誰もが言えることを言うのではなくて、まさにその日来ている来賓の方の話をしてくれたら良いのに。
 とりあえず、決まりきった何かを遂行するだけの時間を使わないで欲しいなと思ってしまうのです。
 校長の長い話は嫌いだという生徒は多いと思う。確かにあまりにも長すぎてしまえばそれはほぼ無条件で全員が嫌だと言うかもしれないけれど、その話を「長い……」という感覚にさせているのは話のつまらなさにも起因しているのではないかと思うのです。「どうせこんなことを言うんだろうな……」と思うとつまらない。というかうざったいし。無理やりじっとさせられて聞かされて疲れるし。ただの説教。普段から散々聞かされた説教を特に何もしていないときに聞かされるのは嫌だなぁ。

 誰かが言ってたんだ。
 人は自分の心を伝えるために言葉を作った。だからこんなに沢山の言葉ができあがった。でも、もしも仮にこの世から言葉が消えていったとしたら? それでもきっと人は誰かに伝えようとするんだろうね。欲しいのは心。言葉は手段。
 その人のことが人としてすごく好きだった。今でも何度か「また会えたら」と思う人は何人かはいるけれど、この人もその一人。

 言葉に心が欲しい。
 無意味なもののために大切な言葉を消費しないでほしいんだ。

生きているだけでいいや。