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「成し得たいこと」を巡る「政治」に向かい合う

衆議院が解散し、総選挙がある。今朝、最寄りの駅前には選挙ポスターを貼る掲示板が設置されていた。どのような結末を見るかは、楽しみにするものではなくて、僕たち自身が作るものだということは改めて心に留めておきたい。

どんな世界にも「政治」はあるわけで、僕たちは社会のさまざまなところで、それを見聞きし、体験する。人の数だけ「思い」があって、できればそれを実現したいわけだ。時として、そうした「政治」に関わりたくなくとも、触れてしまうこともあるだろう。

僕の職場にも小さなそれはあって、側から見ていると面白いのだけど、関わるととても面倒臭そうで、役職的に仕方なくやっている人もいるのだろうけど、「大変なんだよ」と話し始めると、なぜかちょっとイキイキしていたりして、まぁ、そう思わないとやってないよなぁとか思ったりする。

要は、それに関わるということは、上に書いたとおり、「なにか成し得たいものがある」からで、そこに時間や能力、ときにお金を使うことすら能わないと思わないとやっていけないし、そう思うことなくいろんなことをつぎ込むことができるものなんだろう。僕が興味関心がないのは、そうした「成し得たいこと」がないからなのかもしれない。

選挙に出る人たちに対して、「そこに旨味があるからなのだろう」と思ってしまうのだけれど、お金だとか権力だとかの欲にまみれた「旨味」もあるだろうけれど、傍から見ると割に合っていないようにも思う。やはりそこには彼女/彼らなりにこの国を、街をこういう風にしたいという強い思いもきっとあるに違いない(と思いたい)。

それが強ければ強いほど、もしくはそこにそれなりの「旨味」もあってからこそ、何日も自分の名前の入った車に乗り、たすきを掛けて、恥も外聞も捨て去って、活動することができるのだ。羨ましいかどうかはさておき、すごいな、と正直思う。

さて、今月末の選挙。この社会はどういう審判を下すのだろう。誰の「思い」が届くのだろう。僕ら有権者はその熱に負けない熱で迎え入れないといけない。自分たちのために。

…にしても、小さな政治は身近であるがゆえに面倒臭いし、鬱陶しいよな、やっぱり…苦笑。

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