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私について⑤-高校後編-

高校二年になり、部員も11人増え
やっとバスケ部となりました。

普通に試合形式できた日は部室で泣いたのは今でも忘れないです。

あとは、地区制覇→県大会BEST8
これを2年で達成したら俺はプロになれる。
そう勘違いして日々鼓舞しました。

部長となってわかった事

勝つ為の練習
部の運営
個々の育成

本当に大変でした。
強豪チームにいたメンバーは居ないし、
調べようにもyoutubeなんてなかった

本しか無い。

だったら俺ららしさを探そう。
この1年は今後のチームのために捧げようと考え

毎日一人一人をみて、もう向かないなって人は促し、
バスケ好きだけど能力が低い。でもやりたい!頑張る!ってメンバーは大切にして

いよいよ夏の地区ブロック大会

運が良いブロックになり決勝までは
今まで馬鹿にしてきたチームを50点差で勝ってきた。

そして決勝、
残り15秒

46-47
負けている。

攻め続けようとウチのセンターがゴール下を狙うがシュートを落とす。
ガード(バスケ歴4ヶ月)がリバウンドして俺にパス。

3pシュートは苦手なので
T-Macのギャロップステップでファールもらい
ゴール下で安定して決めれば勝てると思い

残3秒でドライブ


ピー!
白15番!

ファールもらいフリースロー
シュート打てないぐらい激しいファールでした。

そして、打つ

入る

同点
残り2秒

ラスト一本のフリースロー
願いを込めてボールに
「お願い勝たせてくれ」そう祈り放つ

スパッ!

シュートが入る

全員喜ぶが
逆転される可能性もあるので全員に戻れと叫び。

試合終わり。

初めての優勝。
約1年半やってきて
みんなで勝ち取った結果。

本当に痺れました。
そんな成功体験が今の自分を創ってくれてます。

細かい事はまた話しますが、大事な事でした。

そして迎える冬。

母が倒れた。
もう歩けないと。
理由は体力が癌によって奪われてるからだと。

家族会議が始まる。
議題は

「安楽死」について
日本では安楽死はできません。
ただ、薬を使い痛みを極力無くして余生を過ごすか

はたまた、痛みはある程度あるけど
普段の家族の生活のように過ごすように
医療器具を家に持って帰り生活するか

満場一致で後者でした。

そして介護ベッドに横たわる母ちゃんから話があると

「あんたは自衛隊になってほしかったけど、体育の先生やりなさい。身体動かす事が好きならそうやるべき、面倒見も良いんだからやりなさい」

母ちゃんから聞いた最後の
私の将来像の相談でした。

わかった!やるよ!
そして、勉強しようと学校の図書館に行き
教員免許をしらべていると。

学校放送で呼ばれる。

「いいか?落ち着け?お母さんが意識無くした。今すぐ病院へ行け!いいな?」

先生から言われた時
視界が真っ白になりました。

号泣しながらチャリ漕いで病院へ

幸い母は生きていた。
唯一の栄養源は点滴だったのだが、それでも追いつかないぐらい転移していた。

医者から父へ
脳まで転移するのも時間の問題と言われるぐらい
状態は悪化していた。

そこから毎日部活終わり病院へ行き
看病しており、

部活オフの日
親父に部屋片付けろと激怒され唯一お見舞い行けない日に事件は起きた。

脈は落ち、意識レベルがかなり厳しいと病院から連絡があった

行くと一切話せない
こんなに浮腫むの?ってぐらい浮腫んだ身体
どんなに話しかけても目も合わない
手を握り締めても握り返しは無い

今夜が山ですと医者から一言。

いやいや、余命2年過ぎても生きてる母ちゃんは大丈夫そう思い、休憩所で寝ていると

電話が来て
もうお母さんが…と看護師さんより電話。

看護師さんが迎えに来て
エレベーターで7階まで!
言われたけど、音速で登り

なんか白く光る部屋に入ると

ピーー、、、

すかさず、母ちゃん!と叫び手を握ると

また
心臓は動き出し、
ありがとうと言ったあと
握り返しがあり

天国へ行きました。

そこから色々とありましたがまたお話しします。

高校3年になる時に唯一の相談相手が居なくなり
遺言の体育教師もどうなるのか

また次回お伝えします。

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