いぐさの香り
生後三ヶ月になると、あれだけ大きく見えたベビーベッドも手狭に感じてくる。少し動くともう足がベットの木枠に当たりそうだ。日々抱っこしていると、娘がどんどん重くなっていることは実感していたが、どうやら身長もグングン伸びているらしい。久しぶりに測ってみると出生時から十センチも伸びていて、成長曲線の真ん中を突き進んでいた。
そろそろ広々した自分の遊び場を作ってあげようかと考えていた折、産後ケア施設で琉球畳の上で気持ちよさそうに寝ている赤ちゃんをみて、我が家も畳を敷くことに決めた。
さっそく下町の畳屋に出かけて行くと、霜鬢に鉢巻姿の親方が歳の頃二十前後の若者と黙々と働いていた。子供の遊び場として置き畳を探している旨を伝えると、それならば無染土のものをお勧めしますとのことであった。一般的な畳はいぐさを一旦泥で染めてから畳表に織り上げるが、泥染の細かい粒子が取りきれずアレルゲンになる可能性があるので、子供には無染土が最適らしい。しかし無染土の畳は今では希少で、製造できる店も少ないとのことであった。僕は親方の説明に点頭して、お勧め通りの畳を選んだ。
一週間ほどして自宅に畳が届いた。親方は「いぐさの甘い香りを楽しんで下さい」と言って帰っていったが、確かに出来立ての畳の中にいると微かに甘い香りを感じる。娘も真ん中で大の字で寝てご機嫌である。畳はまだ新品で緑の色合いが強く、娘が寝ている姿はまさに万緑叢中紅一点の趣があった。
この数カ月、僕自身の変化といえば、お腹に贅肉が付き、膝がピキピキ鳴るようになったくらいだが、娘はいくつものことができるようになった。育児をしていると子供の成長に驚嘆すると同時に、自分は次の世代へバトンを渡しているのだと実感する。
思えばこの畳も先人から受け継いだ技術があってこそ、今こうして我が家に収まっている。そして畳屋の親方が先代の技術を次の世代に伝えているように、僕も親から受け取った愛情を三十年の星霜を経て娘に渡していっている。世間に広く及ぶ影響力などなくても、身近にいる弟子や子供を育てることは私たち一人一人が未来のためにできる価値のある行動だろう。
今はまだ寝返りもできない娘は広さを持て余しているけれど、畳の色が変わってくる頃には縁を乗り越えてこちらに向かってくると思うと、引き続き成長が楽しみである。