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書かない誘惑と読まない誘惑

にしのし

まずは追伸に対するお返事になってしまいますが、8月に行うオンラインイベント、 #SNS医療のカタチTV  を何卒よろしくお願い申し上げます。

この中では複数の、めちゃくちゃでかい対談企画をご準備。

さらには書店との連携フェアもありますのでね。ぜひ、ぜひ。


大塚たちがすごくがんばって準備を進めているので、ぼくはこれを本気で手伝うことにした。最初は裏方で、ツイッターでRTする程度の役目でいいかなと思ってたんだけど、途中から一緒に責任を負うことにしました。

こういう立場をとるのははじめてです。これまではどんなイベントでも、自分が主催の側には回らないようにしていたのだけれど。


このイベントに、職務以外の時間……というか脳のリソースを注ぎ込んで本腰を入れるため、4年半続けたブログ「脳だけが旅をする」を休止することにしました。

このことを決めた日、胃がきりきりと痛くなりました。ふらふら適当に書いていたように思っていたけれど。



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言われてみれば、最近、自分探しみたいな言葉、あまり聞かなくなった。ご指摘の通り、ぼく自身がそういう言葉を求めてないから、そういう文章を目にしなくなるのかもね。

今を去ること20年前、ホームページビルダーでせこせこ作っていた自作ホームページには、たまに「自分探しなんてやめろ」みたいな暑苦しい文章を書いていた記憶がある。文句を言っているということは、つまり、あの頃のぼくはまだ、「自分探しに関する文章」を目にする機会があったってことだ。今なら目にしないから文句も出てこない。

嫌い嫌いといいながら情報収集していたのだろう。

人間の脳にそういうクセがあるということは、タイムラインを見ていればわかる。



バイヤールの本では同じところでウッとなった。

ある本にたどり着いて買おうと思った自分は、すでにその本の前書きを一緒に綴っているようなものなのだね。

本棚を人に見せると性癖がばれる、みたいな言い方もある。

あぁ,本棚はその持ち主の”鋳型”なのかもなあ。なんだか頼もしいなあ。などと,最近は思う次第です。

おお、いいことを言うなあ。

本棚という環世界がぼくを外から規定しているわけだ。



言いづらい話だけれど。

自分が最近手に入れた哲学とか医療の本を見ると、「中を読むまでもないなあ」と思うことが……実はある。

実際に読んでしまえば、思いも寄らなかったことが書いてあって、ぐっと目が啓かれて、うわあ読んでよかった、ってなることは間違いないのだけれど……。

「ぼくはこの本を読了した後に、読んでよかったって思うだろうな」という予測をしてから買っている。確かに、読む前に読み終わっている。


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個人的にあまり好きではないのですが「人生のステージによって,つきあう人間は変わるし,変えるべきだ」というフレーズに,何度か直面したことがあります(きっと「本」にも似たようなことが言えるのかもしれませんね)。

ついさっき読んだ、『文藝 2020 夏』の中に、編集者のたらればさんが、

「『角田源氏』が繋ぐ、千年前と今と千年後」

という名エッセイを寄稿している。

(この河出書房のサイト、本が踊るね。たのしいねこれ。)


よかったら読んで見てください。なぜぼくが突然このタイミングでこれを勧めたのかは、たぶん、すぐわかると思う。

あなたがあまり好きではないというフレーズの、変奏。

「人生のステージによって付き合う本を変える」ということ。

これを、あるいはもう少し希望のあるフレーズに編曲できる、かもしれない。そういうヒントが書かれていると、「今のぼく」は思った。


『文藝』を買ったきっかけは。

「たらればさんが書くんだから、ぼくはいいと思うに決まっている」

つまりは、読む前から自分が喜ぶだろうことをわかって買った。

それでも読後には、読前の独善的な期待値をはるかに超える知性が流れ込んできた。

短いけれどとてもいい読書ができた。


バイヤールもそれくらいわかって書いているのだろうけれど、やっぱり、たまには読まないと読書じゃないと思うんだよな。


(2020.4.16 市原→西野)