僕の理解者
「辛かったよね、私も分かるよ。」
ある時、彼女にそう言われた。その頃の僕は、仕事でも上手くいかないし家族とも色々と揉めていて毎日いつも心をすり減らしているような生活だった。そんな時に彼女に泣きながら相談をしたら、彼女は親身になって聞いてくれてそう言ってくれた。
しかし、当時の僕にとってはその一言は逆効果だった。「僕の何が分かるのか。」と心の中で少しムッとしてしまった。”僕”を”僕”として認知しているのは、僕の中から出てきた言葉で形成されたものにすぎないと。もちろん、”言葉”だけでなくて”感情”を表に出すことでも周りは僕のことを認知してくれているだろう。ただ、その”言葉”や”感情”というものは、あくまでも僕の中にあるものを型に嵌め込んで僕の外へ出しているにすぎない。”言葉”も”感情”も周りの世界との共通認識を前提に定義しているにすぎない。
つまり、例えば僕が”怒っている”としよう。僕は何かに対して腹が立っていて気が立っている状態である。そして、誰かに「今、僕は怒っている。」と言ってみる。すると、周りは僕の気が立っている雰囲気や”僕は怒っている”という言葉を聞いて、「ああ、この人は怒っているんだなあ。」と僕の今の状態を理解する。これは本当に僕を理解してくれているのだろうか。もしかしたら、僕は自分の中に湧き上がっている”カタチの無いキモチ”を表現するために、自分が今までの人生で学んできた”言葉”や”感情”という型に無理やり嵌めているだけではないのだろうか。実は、まだ誰も表現したことのない”言葉”や”感情”なのではないだろうか。映画の英語を日本語字幕に書きおこす時に前後のストーリーに合わせて意訳をしているのと同じで、僕は周りとのバランスを保つために”カタチなきキモチ”を無理やり自分なりに意訳しているだけかもしれない。
そう考えると、僕を一番理解しているのは僕自身だと言い切れるものでもなくなる。僕の知っている”言葉”が少ないせいで、もしかしたら僕のことを自分自身でもきちんと理解しきれていないかもしれない。
…って思うんだけど、君はどう思う。
僕は居間の日向でゴロゴロしながら、一緒に寝転がっているうちの猫に問いかけた。すると、こちらを向いて「ニャア。」と鳴くと起き上がって伸びをした後に、僕の足元にずしりと体重を乗せて寄っかかってきた。
「僕の一番の理解者は君かもね。」
そのまま僕らは昼下がりの居間で昼寝をしていた。
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