バカとは何か?
Youtubeの本要約チャンネルで、橘玲さんの著書「バカと無知」についての動画を見た。見たと言っても、最初の数分だけ。途中から、そもそもバカとは何だろうと考え、思索に耽ってみた。
Wikipediaによると、馬鹿(バカ)とは、
愚かなこと
社会の常識に欠けていること
知能が劣り愚かなこと
つまらないこと。無益なこと。
役に立たないこと。機能を果たさないこと。
記憶力・理解力などが人と比べて劣っていること。
と定義されている。特に違和感は無い。日常的に使用する際に使っている意味である。動画の中で、人類が150人程度の共同体として暮らすようになってから、能力的に劣る人間は、それがバレないように、また能力が優れている人間は、共同体のリーダーから自分を陥れる人物として睨まれないように、バカを演じてきたとのこと。確かにそれは、現代社会においても同じようなことが起きている。
イーロンマスクのように、能力をひけらかすタイプは、反感も買いやすいし、狙われやすい。個人的には、清々しく感じるが。ソフトバンクの孫さんは、愛嬌たっぷりに失敗を語り、好感を持たれやすい。バカを演じることで、皆と同じだとアピールし、共感を得る。しばしば見られることだ。
一方で、能力の劣っている人間が、見栄を張ったり、時には暴力的になったり、恫喝することで、自己評価を高めたりする。周りが大人しい人間ばかりであれば、それに従い、バカな組織ができる。
バカということは、人間関係における潤滑油または接着剤でもあるのかと思う。ユヴァル・ノア・ハラリ著 「サピエンス全史」を読むと、人間の共同体は、ホモサピエンスの信じる力によるある種の共同幻想であり、共同体を生み出すことで、様々な人間関係のストレス、争い、仕舞いには国家を生み出し、大規模な戦争まで起こしてしまうという。共同体を生み出す以前の狩猟民族時代の方が、個のレベルでは幸せであったのではないか、と述べている。政治家もバカを演じた方が、世界平和につながるのでは無いかと思う。プーチンも、日本の政治家のように、もっと適当でバカだった方が良かったかもしれない。
個人的に、バカな方が幸せなのでは無いかと思うことがある。自分の趣味に没頭している時、周りの人間からバカみたいに思われたとしても、自分の幸福に直結していると感じることがある。組織社会の極まった、常にネット環境により他者を知る機会が極度に増えた現代社会において、人と距離を保ち、自分の幸福に忠実にじなる術がバカになることかもしれない。
夏目漱石の草枕の冒頭
「山道を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みづらい。住みにくさが高じると安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて絵ができる。人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向こう3軒両隣にチラチラするただの人である。」
漱石のように極めて頭が良く、神経質になりすぎると、生きづらい。
もっと極端に考えると、そもそも人類が、地球に生息するすべての生物比べて、バカなのでは無いか。バカな存在の中で、お互いにバカだと言い合い、暮らしている人間は愛おしい存在なのかもしれない。
ノアの方舟の物語を映画化した、ラッセル・クロウ主演の「ノア 約束の舟」のラストシーン、まだ見てない方には申し訳ないが、印象的なシーンを記述する。
ノアは神様からの使命を授かり、人類以外の生物を生き延びさせ、自らの子孫自体も増やさず、人類を消滅させようとしていた。自分の娘が身籠ったことを知り、生まれてくる子供を殺すと言い放ち、妻や子供も恐怖に怯えながら、出産を迎える。娘の抱える赤ん坊を殺そうとしたその瞬間、赤ん坊の笑顔を見て、思いとどまる。この瞬間、私はノアが「かわいい」と感じてしまったことが殺意を失ってしまった原因と思った。つまり、「かわいい」も人類を救うのでは無いかと考えた。
「バカな子ほどかわいい」というが、バカも、かわいいも、人類共同体にとって不可欠な言葉、または感情なのでは無いかと考えた。
橘玲さんの著書「バカと無知」、Amazonで購入しようと思ったら、在庫が切れているようで、しばらくしてから購入し、読んでみようと思う。