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初めまして、とにーです。 #自己紹介

私のことを当然ながらご存知ない皆様に自己紹介の代わりに、私のこれまでをまとめてみました。


・『浪漫飛行』がリリースされた年に生まれた31歳。
地方公務員の父(昭和の雷親父)と専業主婦(赤髪天パの肝っ玉母ちゃん)の間に4人兄弟(兄・兄・姉・私)の末っ子として大分に生まれる。自称スーパーファミリーコンプレックス。家族大好き人間。夢は「良き夫であり、良き父」になること。

・兄の背中を追ったが追いきれなかった中学・高校
中学では吹奏楽部で活躍する兄に憧れて、吹奏楽部に入部。歯並びが悪いからという理由で打楽器を担当することになる。打楽器の中でシンバルが専門で、3年間ほぼずっとシンバルを叩き続ける。高校は兄の母校でもあり吹奏楽の古豪に進学。吹奏楽部に入部するも自分の理想を振りかざしてしまい先輩はおろか同期にも愛想を尽かされ1年の冬に退部。退部後は学生の本分は勉強だと受験を意識した勉強を開始。苦手だった理系科目を教えてもらうために友人を訪ね囲碁将棋部に入り浸っていたところ、顧問の策略(?)により囲碁将棋部に入部することになる。中学時代に軽度の摂食障害となり、スクールカウンセラーの先生にお世話になった経験から臨床心理士を目指そうとするも家族からの猛反対されも断念。せめて専門職のサポートができればと養護教諭を目指し、養護教諭(第1種)と看護師、保健師の資格を取得できるコースのある大学を志望。志望していた地方公立大学に合格するも志望していたコースがなくなっていたことに合格した後に気がつき、そのコースがないならと滑り止めに受けていた看護の専門学校に進学。

・共学とは名ばかり
進学した専門学校は、女性が大半。学年に男子学生は自分1人。同性の友達には羨ましがられたが、男性諸君、フィクションはフィクション。夢を見るのは勝手だが、夢は所詮夢ということを忘れてはいけない。

・初めての現場はER
入職後初めての現場が救急外来。スーパーナースに囲まれて、少しでも近づくためにと必死で食らいついていこうともがいた結果、4年ほどをかけて職場で一定度の評価を得る。最愛の人と結ばれ子宝にも恵まれて幸せな日々を過ごすが、無理が祟ったのか体調不良に悩まされはじめる。そんな最中5年目の途中で体調不良を引きずったままICUに転属。厳しくも温かい諸先輩方や優秀な後輩たちに恵まれるも、体調不良を解消できず転属後半年でダウン。休職を余儀なくされる。

・抱き始めた疑問
休職後半年ほどは、ほとんど動けず1日の大半をベッド上で過ごす。家族の献身的なサポートの甲斐もあり徐々に回復したが、ベッド上で過ごす日々の中で自問自答を繰り返し、看護師という仕事に疑問を感じ始める。

・リスタート
同じ轍は2度と踏まないと決意。ワークライフバランスを優先し専門外来勤務を選択。外来看護師としてのリスタートを切る。

・燻ぶる想い
入職直後から目の当たりにしてきた自分より数倍優秀で、人格者で、志を持つ、看護師たるべき同僚が看護の現場を去っていく現状が、リスタートを切った自分には、ことさらやるせなく思えた。そんな現状をなんとか打破する術はないかと模索し始める。

・猛る想い
看護師たるべき人が、看護師で居られるようにするにはと模索する中で同志と出会う。医療安全に活路を見出し、学ぶことから始め、最低限必要な資格を取得。医療安全に従事することを目指すも、現在の職場ではそれが叶わない、叶ったとしても相当な回り道になることが判明したため、転職活動を開始。

・やってみてわかること
転職活動を開始してみて、まず思ったのは想像以上に求人があったこと。もちろん検索条件がかなり広かったため、その影響もあったと思うがそれにしても、想像以上に求人はあった。エージェントを通したところと直アポを取ったところとあったが、結論直アポが早い。当初はエージェントを通して探してもらっていたが、とにかく遅い。自分でインターネットで検索すれば出てくる情報も時間がかかるもしくは出てこない。求人先と連絡をとってもらっても経路が増える分レスポンスも遅い。加えてお互いに意図通りに言葉が伝わらない。そのような経験からインターネットで検索して求人先が特定できない場合を除いて連絡方法を直アポに変更。あっという間に面接まで進み、転職決定!!⇦今ここ!!!

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見出し画像には、奥山まめ様の画像素材を使用させていただきました。  Facebookで無料素材を公開されていますのでリンクを載せておきます。
https://www.facebook.com/groups/2998151283748563/

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