夏の日のこと
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どうしようもなくなったとき僕は本当のことを書いてきた。
でも本当のことだって、読んでくれる人に気づかれるのが恥ずかしくて、「小説だよ。」「ファンタジーだよ。」って嘘をついてきた。
でも今日は本当に伝えたいことがあって、こんな書き出しをしている。
どうしようもなくなるというのは、僕の感情がどうしようもなくなるということ。
うれしくて、悲しくて、どうしようもなくなる日が大人になっても来る。
そうだ。具体例をだしたほうがわかりやすいね。
例えば、この勉強机。
若き日の父と母が、幼かった私の”はじまり”を祝って買ったものだ。
そのとき、父や母がどんな気持ちだったのか。
幼かった頃、想像もしなかったようなことが、今になって痛いほど分かり、うれしくて、悲しくて”どうしようもなくなる”。
そうそう。こうやって僕はいつだって、少しのことで、”どうしようもなくなってきた”。
でも今、僕がどうしようもなくなってしまったのには、また違った要因があるんだ。
少し、聞いてくれよ。
僕のどうしようもない感情の話を。
1
それは、ついこないだのことだ。
残業が終わって、アパートに向かって歩いていたときのこと。
仕事は終わって、もうすぐで帰宅できるというのに頭がものすごいスピードで回転したままで、しばらく寝れそうになかった。
そんなことを言うとまるで、僕が仕事ができる頭の良い人だって、勘違いされてしまうから、追加の説明が必要だね。
僕は、会社のお荷物だ。
他の人が6時に終わる仕事を、日付が変わるまでやっている。
だからといって、できのいい仕事ができるわけじゃない。
僕の仕事はミスだらけで、いつも同僚が代わりに仕事をしている。
僕は、大人になっても”支えられているだけ”の人間だ。
でも今のご時世、別に怒られはしない。
だからずっと頭がものすごいスピードで回転している。
僕は会社にいらない存在なんじゃないか?
嫌われているんじゃないか?
あきれられているんじゃないか?
というより社会にとって本当にいらない存在なんじゃないか。
そんなことがずっと頭の中を駆けめぐる。
だから、コンビニで缶ビールとサラミを買って、少し落ち着こうと思った。
しかし、どういうことだろう。
行き慣れたアパートから一番近いコンビニにどれだけ歩いてもたどり着かないのだ。
コンビニまでの長い一本道の真ん中にどれだけ歩いても、取り残されてしまうのだ。
何時間歩いたのだろう。
もう日が昇り始めていた。
仕事の疲れでおかしくなってしまったんだ。
僕はコンビニに行くのを諦め、近くの自動販売機でコーラを買い、渇いた喉を潤すことにした。
自動販売機に小銭を入れ、コーラめがけて手を伸ばすが、どういうわけか手が届かない。
背伸びをしても、ジャンプしても届かない。
「ははは。慎太は身長がまだまだ足りないな!」
振り向くと、まこ兄が笑っていた。
「ジュースぐらいまこ兄が買ってやるから。」
まこ兄の背後には、太陽に照らされた木々が美しい緑色を発していた。
遠くから蝉の声がじりじりと聞こえてくる。
その風景は、僕が幼少期を過ごした地元の景色そのものだった。
僕が身につけていたのは、スーツではなく、半袖のTシャツで、日に焼けた短く、細い腕がひょっこり顔を出していた。
「今日は、山までルルと散歩だ。ついでにウナギ釣りをしよう。」
「うん!」
僕から出た声は9歳の少年の声だった。
25歳会社員の僕は、あの長い一本道に置いてきてしまった。
2
まこ兄の家の庭にいくとルルが尻尾を振ってこちらを見ていた。
「絶対、放すなよ。」
わたるじいが、怖い顔で僕にそういった。
わたるじいは、まこ兄の父親だ。
長年、地元で大工をしてる職人気質の人でいつも怖い顔をしている。
なんだか、怖くて泣きそうになってきた。
「よし。いくか。」
まこ兄の優しい笑顔で、安心し、ルルと一緒に歩き出した。
ルルはわたるじいのほうをちらちら見ながらゆっくり歩いていた。
そして、わたるじいが玄関を開け、家に戻った途端に、僕を引っ張って、ぐんぐん山に向かって走り出した。
ルルはなんの躊躇もなく、山を駆け上っていく。
どんどん道が狭くなって、木々の緑が深くなっていく。
すると、ぼろぼろの一歩踏み出した瞬間に崩れてしまいそうな木造の橋が見えた。
するとルルは走るスピードを弱め、川のすぐ近くまで歩いて行き、水を飲みはじめた。
橋の向こうにもずっと山道は続いている。
一体、どこまで続くんだろう?
一体、誰がこんなところに橋を作ったんだろう?
ぼんやり考え事をした。
ルルは水を飲み終えると、寝そべって、飛んできた蝶とじゃれはじめた。
「このへんにしておこう。山道はきりがないんだ。だから戻れるうちにやめておこう。」
まこ兄は、汗だらけの真っ赤な顔でそういった。
でも一切、勝手にルルと全速力で走ってしまった事に関して、何も怒らなかった。
ルルは蝶とのじゃれあいに飽きたのか、ミミズを掘り返して遊びはじめた。
「この川はウナギが釣れるんだ。」
まこ兄はバックから折りたたみ式の釣り竿を出した。
針で器用にミミズを刺すと、そのままそれを川に放り込んだ。
「ほら。慎太もやってみな。」
ルルの足下にいた、活きの良いミミズをおそるおそるつかむと、そのままミミズの腹に向かって針を刺した。
そうすると黄色いくさい液が手に大量にかかった。
「うわ!」
「ははは。不器用な奴め。不器用な奴はすぐ反撃を食らってしまうのさ。しかも、その匂い3日は取れないからな。ははは。」
川で手を洗うと、それからしばらく静かな時間が過ぎていった。
ルルはもうミミズを掘るのにも飽きて、ウトウトしはじめた。
「楽しいな。慎太」
「う、うん。」
一体、何も釣れてないのに何が楽しいのだろうか?
ルルはもう川辺ででぐっすりと寝ていた。
もうしばらくすると僕の持っていた釣り竿が勢いよくしなりはじめた。
「慎太!巻け!」
10秒ほど巻くと大きなウナギが、川から飛び出してきた。
「やったよ!まこ兄!母さんに焼いてもらうから、今日家おいでよ!一緒にうなぎ食べよ!」
ところがまこ兄は悲しい顔をしながらこちらを見た。
気付くと僕はスーツを着ていた。
大きな体を包むジャケットが泥だらけになっていた。
「もうすぐ時間切れだ。」
ルルは変わらずに、舌を出してこちらを見ていた。
「ははは。慎太でかくなったな。あんなにちびだったのによ。」
僕は急に自分が25歳の社会人であることを思い出して、恥ずかしくなった。
「まこ兄は変わらなすぎだよ。もうあれから15年は経ってるよ。」
「どうしてもあの頃に戻りたくてな。俺が25とか26あたり、お前が9つぐらいの日に。
あと言い忘れてたけど、ここは死人の世界だ。俺も俺のおやじもルルも死んだからここにいるが、お前の母さんはまだ生きてるからここにはいないよ。」
「あはは。よく分からないよ。でもまこ兄が死んだなんて、噂にも聞かなかったよ。」
「ははは。お前、働きはじめてから1回も帰ってきてないだろ?そりゃ知らないわけさ。ったく。俺のことなんて完全に忘れて、しかも葬式も来ないなんて。気分次第では呪ってやってもいいぐらいだよ。」
「あはは。やめてよ。ってかつまり、僕も死んじゃったってこと?」
「あはは。ここに来たが、今こうして、現実世界の見た目に戻っている。だから、死にかけていたが、もう息を吹き返そうとしてるってとこじゃにかな。」
「あはは。いいよもう死んでも。ここにいてずっとまこ兄とウナギ釣りしてたいよ。」
「あはは。馬鹿か。お前は若すぎるよ。それになんで25歳の男と2人で、毎日ウナギ釣りしなきゃないんだよ。かわいこちゃんならまだいいけどさ。」
「あはは。若すぎるのは、まこ兄もだろ。それにこんな田舎くさい男とウナギ釣りデートしたいかわいこちゃんなんて、日本中どこを探してもいないよ。」
「あはは。ガキが言うようになったな。あはは。」
「あはは。もういいよ。もう大人だし、うだうだしたくない。おとなしく帰るよ。でもどうやって帰ればいい?」
「まっすぐ、さっきの自動販売機まで歩いていくんだ。25歳だろ?1人でいけるな。」
「あはは。馬鹿にすんなよ。じゃあな。」
「ああ。じゃあな。あーあと。」
まこにいはにこりと笑った。
「ずっと見守っている。」
僕は何も言わず、下を向いて早歩きをした。
自動販売機につくまで、ずっとルルの遠吠えが聞こえていた。
3
気がつくと僕は病室にいた。
くも膜下出血で、しばらく意識を失っていたと聞かされた。
後遺症で左手がしびれるようになってしまい、
休職することにした。
後遺症は、日常生活に生活をきたすほどでは、なかったものの、何かあったときのために、地元でしばらくゆっくりすることにした。
両親からの連絡に返信する気力もなくなってしまい、両親とはしばらく縁が切れていたが、今回の件を報告すると、実家に戻ることを快諾してくれた。
帰った初日に、まこ兄の仏壇に線香をあげにいった。
まこ兄はニコリと笑っていた。
まこ兄の母親である、弘子さんが快く、まこ兄について教えてくれた。
まこ兄は、都市部の学校で教員をしていたが、
仕事が合わず、精神病にかかり、地元に戻ってきた。
その休職をしていた1年間、まこ兄は、僕の両親から頼まれ、共働きの家庭で、兄弟もいない僕の遊び相手をしていた。
元々、子どもが好きで教員になったまこ兄にとって、僕との時間はすごく特別なものだったという。
まこ兄の病状はよくなり、仕事にもどったが、今度は、仕事のストレスからアルコール依存症になってしまい、そのまま肝臓の病気でなくなってしまったのだそう。
そしてアルコール依存症になってしまった情けなさが原因で2度と地元に帰ることはなかった。
あれほど、強く、かっこよく見えたまこ兄は、酒浸りの弱い人間であった。
「あなたが、まことを支えていたのよ。ありがとう。」
「いえいえ。僕はただ遊んでもらっていただけですよ。」
「「俺はいい先生なる!」って意気込んで、都会にいった。でも全然うまくいかなくて、おまけに病気になってしまった。落ち込んでいたときに、あなたに出会った。あなたに会ってまことは明るさを取り戻した。ありがとう。本当にありがとう。」
いったいどういうことだろう。
心がぐしゃぐしゃで言葉がなかなか出てこない。
「あの。。僕は教員じゃありませんが、子どもは好きです。もし遊び相手がいないこどもがいましたら教えてください。」
「あはは。頼もしいわね。何度も言うけど、本当にありがとう。今日は来てくれてありがとう。いつでもお茶のみにきてね。」
帰り道、僕の感情は”どうしようもなく”なった。
僕がまこ兄を知らず知らずのうちに支えていたといううれしさと、まこ兄が孤独に酒に浸りながら死んでしまったという悲しみで、心がマーブル模様になった。
4
翌朝、朝食を取ると一目散に勉強机に向かった。
僕の今、持っているどうしようもない感情を忘れないうちに書いておきたかった。
何時間も夢中で書き続け、もう少しで書き終わるところまできた。
あっそうだ。
いつか読んでくれるかもしれない誰かへのメッセージを書きて終わりにしよう。
でもどうやって伝えたらいいか分からず、すぐには書けなかった。
1時間ほど悩んだ末にこんな言葉を書いた。
僕は、実家の勉強机からどうしようもない感情を書いている。
”支えられているだけ”のあなたへ伝えたくて書いている。
きっとあなたも”支えているよ”って伝えたくて書いている。
でもこんな偉そうなことを書いても、僕も実際、確信はない。
実際、僕は仕事のできが悪いうえに休職までしてしまっているのだから。こんな今の自分が誰かを支えてるなんて言ったら笑われてしまう。
でもいつか僕に”支える”出番がきたらいいと思う。
「慎太。あんたと遊びたいって子どもがお父さんと一緒に玄関にきてるよ。」
母親が部屋のドアの向こうで僕に声をかけた。
弘子さんが話を回してくれたんだろう。
きっとこれは、僕の出番だろうか?
いや。きっとそうだ。
僕は1人の部屋から立上がった。