2022.2.10
昼ごはんの讃岐うどんが大変美味でした。美味しいごはんに感謝です。
今日も今日とてnoteを開いてみたものの、先日から拝読しているライアン・ホリディ氏の『エゴを抑える技術』の内容が私にとり非常に衝撃的でこのnoteともどう向き合えばいいのか手をこまねいていたりする。
そのトピックは「沈黙は力」というタイトルだった。
何かに挑戦するときは、それに対する不安や空白をしゃべって解消するのではなく、口を閉じ真っ向からぶつかっていくのが大切だと説いている。
特に私がぞっとしたのは次の箇所(52頁9~12行目)
「さまざまな研究によると、目標を思い描くことはたしかに大事だが、やりすぎると本当に進展しているかのような錯覚を起こすという。言葉にすることも同じで、難問に取り組んでいる最中に独り言を言うだけで、画期的な解決策が出にくくなる」
この箇所を読んだとき私は大きな衝撃を受けた。私がいままで何かやろうとしても成し遂げられなかった理由がまさにこれだったからだ。つまり私は進展していると錯覚し、現実から目を背けていたということだ。
次の箇所(53頁9~11行目)も胸に刺さった。
「偉大な仕事をするというのは一種の闘いである。ヘトヘトになり、意気はくじけ、恐怖や不安に襲われる。いつもではなくても、闘いの渦中にいるときはそんな気持ちを味わう。先が見えない不安、その空白(ボイド)を埋めるために皆しゃべるのだ。」
一言一句その通りだと思った。文章作成の際、あらかたの文章はできても最後推敲の作業になると意気がくじけて投げ出したい気持ちになってくる。そんな時に「あと少しなのに終わらない」と誰かに言えば「お疲れ様! 頑張ってるね」と慰めてもらえる。その慰めで空白を埋め、そして文章がなかなか書き終わらないというスパイラルに陥っていた。つまるところ私には、空白に耐えうる根気がなかったのだ。
だからこのnoteも空白からの逃避として書いているのではないかと思い、タイピングの手が止まってしまっていた。考えを文章に起こすことで、少しでも自分が前進できたのではないかと現に驕っていたと気づいたからだ。
しかし完璧主義のきらいがある私には何かを不格好でも完成させる練習も必要だった。
この二つの意見をじっくりと鑑みて私は、自分の状況を見極めて決して驕らないことを徹底していければ、note投稿も意義ある形になるのではと今の時点で結論を出すことにした。GOサインだ。
ほぼ日記ではあるが積み重ねが少しでも完璧主義の緩和につながるのなら、投稿を継続してもいいはずだ。ゆるっとこれからも投稿していきたい。
自分が達成したいと思っていることに関してはゆるっとせず、金輪際SNSやLINEで「今から××する」とはもう言わないとここに誓う。やるべきことに正面から向き合い寡黙に戦っていこうと思う。
こんな大口を叩いても行動しなければ意味がない。達成したいことに関してはnoteに書かないかもしれないが、これから寡黙に行動していこうと思う。
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