コンゴジャーニー
いつもどこ行ったかなって探すのが面倒くさいので、ここに一部改編の上で採録しておく。
いにしえのインターネッツ、mixiに書いた太古の日記から「コンゴジャーニー」を依り代として想うことなど。
ちなみに、ここでのコンゴはコンゴ・キンシャサ(コンゴ民主共和国・DRC)ではなく、コンゴ・ブラザビル(コンゴ共和国)の方。
1.
コンゴジャーニー読み中(2008年5月3日)
コンゴジャーニーと言う本を読んでいる。
筆者はイギリス人旅行作家。
コンゴ奥地の未踏の湿地ジャングルにある湖にいるという
モケレ ムベンベという動物を探しに行く紀行文。
というか、紀行文の域を遥かに脱した、スピリチュアル物語だ。(笑)
とにかく、全編、呪い、まじない、タブー、謎の動物、精霊、
そして死と病気で満ちあふれている。
現地の村人の世俗的なそして哲学的な世界観。
ガイドの現地政府科学者の科学と呪術、筆者の持ち込む西洋的「常識」との間での激しい葛藤。。。
読み終わったらまた書こうと思うけど、とりあえず、すごく心に残った一文を抜粋。
女呪術師が治める地図に無い秘密の湖のほとりの小さな村ムブークーの森で、林内の探索のあとガイドしてくれた村人ジャンの林内にある狩猟小屋に戻ってのシーン。
「俺たちはジェケの村人とは違う。狩りに行って、目についた最初の獲物に矢を射かけるなんてことはしない。おれたちは待つんだ。文明人らしく待つ。そして、老いた動物を殺す。それか、病気かけがの動物をな。たとえばこのカメだ」(肉をほおばった)「マルセラン、おまえも見ただろう。このカメは霊からの贈り物、先祖からの贈り物だ。俺たちは狩ろうとしていたわけじゃない。追いかけてさえいなかった」
略)
奏でられたのは、私が聞いた事もないほど悲しい曲だった。静かで、優美で、抑揚と悲しさに満ちたメロディーが流れ出した。
夜になっても私たちはまだ聞いていた、ヒナフクロウが鳴き、すぐ近くでヨタカの鳴き声のような耳障りな音がした。突然、「もういい」とマルセランが言った。喉が詰まっていて、そこから絞り出すような声だった。「ジャン、頼む。もうやめてくれ。それは死者の歌だ。死人のことばかりだ。おまえは死とたわむれている」
2.
科学と呪術(2009年3月14日)
コンゴジャーニー読了。
科学と呪術について。
この本はイギリスとアメリカの科学者が、コンゴの湿地ジャングルの未踏査の領域にあるテレ湖という湖に未発見の動物を探しに行く紀行文。
しかし、紀行文というにはあまりにも鮮烈な文明に関する考察であり、小説よりも奇抜な物語だ。
旅にはコンゴ共和国の野生生物保護省の科学者マルセランが同行するのだが、この人物が物語のキーだ。
彼は、キューバとフランスで先進的な生物学を学んだ、野心と才能とスケベ心に溢れた気鋭の動物学者で、コンゴの中央官庁のエリートだ。
その彼が、森に入ると変容する。
呪術と疫病と密やかな未知の動物の気配に満ち溢れたジャングルに入れば、整然と体系付けられた西洋科学はあっという間に影を無くし、面妖で複雑なアフリカ的な「文明」がのっそりと立ち上がる。経験と太古から受け継がれる智慧が真っ黒な影を落とす魔術と呪術のシステムだ。
西洋科学の体系に基づいた記述的・要素分解的な知識の蓄積を語りつつも、同時に、いとも簡単にその不完全さを看破していく旅は、そのまま科学の不完全さと頑迷なショーウィズムを打ち壊していく内なる旅でもある。
親戚の呪術師から受け取ったお守りに精神を支配されて、「先進科学」で得たと信じていた精神の自由が失われる時、森を支配する、「霊」で説明される異形の体系が姿を現す。
それは僕らが興味半分で語るお化け話とは遥かにかけ離れた、深い知識と洞察に裏打ちされたオルタナティブな科学の姿だ。
森に住むピグミーは、鉄とプラスチックの国からやってきた白人を呼んでマージナルマン…「野蛮人」と吐き捨てる。
余りにも入り組んだ自然を前にしたことのある人間ならば、頭では理解できるコンセプトだが、それは常に死の影を伴って、不気味に旅路に立ちふさがる。
夜の森から聞こえる正体不明の叫び。あれは何だ?なんなんだ?
深い森の中の気配の全てには役割がある。しかし、それら錯綜する役割のこんがらがった関係性を紐解くのに必要なのものは、何だ?
「限界まで進んだ科学は魔術と区別がつかない」(アイザックアシモフ)
参考文献:コンゴジャーニー:レドモンド オハンロン著 土屋政雄訳 新潮社
(c) Masao Tsuchiya 2008
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