阿呆の哲学
私は55歳の東南アジア在住者。結婚して17年経つ華僑の東南アジア人の夫との間に最近、待望の第一子が奇跡的に授かり、もうすぐ1歳4ヶ月になるところ。職業は心理士。波瀾万丈の人生を生き抜いてきたせいか心も身体も弱く、夫の精神的支えなしには生きて来れなかったし、これからもそれは同じことと思って感謝している。しかし夫婦なら当然のことかもしれないが、ぶつかりあって疲れ果てることも。特に子供が授かってからは、やっと3人家族になりたいという夢が叶ったのにも関わらず、子育て論が違ったり、赤ちゃんの取り合いとなったりして最初の半年はまるで修羅場のようであった。一年経ってやっと赤ちゃんを挟んでのお互いの立ち位置がわかり始め互いのペースやスタイルを認め合いながら子育てを共にしつつ夫婦の絆を引き続き強め合うことが出来るにまで至ったように思う。赤ちゃんの奪い合いの一因となってしまったのは、授乳以外は全て僕の仕事と言わんばかりの彼の母性本能の強さであるといえる。夫とは言葉にして話しあったことはないが、恐らく彼はLGBTQで私たちには性関係がない。結婚前後2-3度の肉体関係で終わってしまった。非常にフラストレーションが溜まったが、ロマンスがなくてもベストフレンドである夫と別れる理由も勇気も見つからずここまで来てしまった。待望の赤ちゃん出産後二人のベストフレンドのような関係は益々強まるかと思いきや、離婚寸前の不仲にまで発展してしまい、赤ちゃんと共に夜逃げしたいと思った日も何度か。
苦しくて方々に相談したが、ある友人が教えてくれたシンプルな効果的コミュニケーション方法が私の心を救ってくれた。それは感情入れずにただふんふんと人の話を聞くこと。私風に解釈すると聞いているふりをすることかなあと思う。そういえば私を育ててくれたお婆ちゃんの信仰していた宗教で、「阿保になりなさい」という教えがあった。そして尊敬するカトリック修道女の実母が彼女にいつも言っていたという「許すことは忘れること」も思い出す。相手の言ってくるきつい言葉を単なる騒音と受け止めてお馬鹿な私には通じないのですよと半分聞いたり、すぐに忘れたりしていれば良いのかなあと。そんなこと元日から考えている阿保な私の小さな哲学、ちょっと書いてみました。