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やる気がない修論を提出した学生に情けで修士号を与えたくない。
修士号は日本で研究職に就くための免許と言える。
海外では博士号を持っていないと相手をしてもらえない場合が多いので、日本は研究者を名乗るのに比較的ハードルが低い。
修士論文はそんな修士号を取るための最終関門だ。
ほとんどの学生は己の持ち得る力を出し切って全力で取り組む。
しかし、少数ながらもひたすら低空飛行の学生は存在する。
実験もそこそこに苦労しない程度に通学し、怒られないギリギリの分量で修論を書き提出する。
そういった学生の修論は考察が足りていなかったり新規性がなかったりする場合が多い。
修論を頑張らない学生のほとんどは、「仲の良い友達が進学するから。」「就職に強そうだから。」という理由で進学していることが多い。
別に研究者になりたいわけでもない。
適当にやって、適当に修了したい。
私はこんな学生に修士号を与えることに疑問を抱いている。
もう一度書くが修士号は免許である。
研究者として一定基準を満たしていることの証明になる。
運転免許に例えるとわかりやすいと思う。
運転免許を取得するためにはそれなりの試験をクリアしなくてはならない。
無事故、無違反で運転できる人を見極め、適正のある人に免許を発行するためだ。
だがもし、
「私は運転をする予定はありません。身分証明書としてとりあえず運転免許証が欲しいだけなので、他の人より優しく審査してください。」
こんなことを言う人がいたら免許センターはどうするか?
もちろん合格基準を緩めたりすることはないだろう。
これから運転をバリバリする予定の人もそうでない人も等しく評価される。
これは当たり前だと思う。
大学ではこの理屈が通らないことがある。
甚だ疑問であり納得ができない。