おうちへ帰ろう(自分という "個" の尊重)1
旅じまいのご提案
あなたがもし、何年も、何十年も、
どこか遠くにある(と思っている)「幸せの国」に向かって旅を続けているなら、
残念ながらそんな場所には到達しないので、そろそろ、店じまいならぬ、「旅じまい」することを考えてほしい。
わたしにとって、
それは旅というより、競争だった。
「そこにいるだけでいい」と存在を肯定してもらえたのは赤ちゃんの頃だけで、
多分、5歳か6歳の時点で、「よーい、どん!」の合図を聞き、
「もっと頑張って、もっと幸せに」というレースに、知らないうちに強制参加させられていた。
あなたも、身に覚えはないだろうか。
遅くとも小学校の高学年くらいには、「自分もみんなもこのままではダメで、もっといい人間にならなきゃいけない。そうやって努力を続ける人だけが評価されて、偉くなれて、お金もたくさんもらえて、幸せになれる」と信じ始めていなかっただろうか。
日常の中のちょっとしたしあわせとは違って、
親や先生が言う「本当の幸せ」は、今ここにあるものというより、
頑張った人だけが辿り着ける最終目的地、「幸せの国」という扱いだった。
けれど不思議なことに、
その目的地に無事にゴールした大人を、見たことがなかった。
無理ゲーと攻略法
子どもの目から見ると十分に頑張っている大人たちも、
自分自身に全然満足しておらず、ちっとも幸せそうじゃなさそうだった。
親は、一生懸命に働き、自分たちが生きるだけではなく、わたしという手のかかる子どもを育て、家庭内のトラブルに対処し、日々を生きていたけれど、なんだかいつも焦燥感に駆られているように見えた。
学校の先生たちの中にも、きっとたくさん勉強をして教員免許を取って、
無事に教職についたんだろうに、なぜかぶすっと不機嫌で、何かに不満そうで、いじわるで、イライラしている人が、少なくなかった。
大人たちはちゃんと生きて、暮らして、頑張っていたけれど、
スネ夫の家みたいなお金持ちはそうそういなかったし、
なんかみんな疲れていたし、不安そうだった。
それを見て、子どものわたしは「人生って、幸せになるって、めちゃめちゃ大変なんだな….」と戦々恐々としたものだ。
けれど、人生の無理ゲーっぷりに漠然とした不安を抱き、
顔を引きつらせた子どもたちの鼻先に、
すかさず ジャジャーン!と「解決策」「攻略法」が提示される。
「人生って不安でいっぱいだよね。でも大丈夫! とにかく、たくさん勉強をして、いい学校に入って、いい会社に入って、立派な人間になればいいんだよ(^^)」
え、でも親や先生はそれでも大変そうじゃね?
あんなに大変なのに、十分に頑張ってなかったってこと? と疑りつつも、
他にすがることのできる、はっきりとした解決案も見つからない。
「わたしはそれって違うと思う!」と声を上げようにも、
「なんにもわかっていない生意気な子ども」扱いされて相手にしてもらえない。
「大人の言うことを聞いてれば間違いないから!」
「大きくなったらわかるから!」と言われてしまうと、口をつぐむしかなかった。
だから、「いい学校、いい会社、いい人間。そしたらいつか、幸せに。いい学校、いい会社、そしたらいつか、幸せに」というスローガン、いや、プロパガンダを信じることを選んだ。それが一番ラクで、安全だったからだ。
どう頑張っても、追いつけない
時が経ち、わたしは必死になって、そこそこの「いい学校」に進んだ。まあまあ「いい会社」にも入った。
で、社会に出た途端、そのペースに追いつけず、身体をこわして休職した。(数年前の話です)
“休職”しても、休めたのは仕事だけで、自分責めは止まらない。
教わった通りの “幸せになるための正しい道” を歩み、その道を歩めるほどに恵まれていたにも関わらず心身の不調を訴えるなんて、自分の感じ方や考え方がおかしいのだと決めつけ、体調を崩した自分を責めた。
で、もっと具合が悪くなった。
で、死にたくなった。
休職中は、同僚や産業医が
「心と身体が疲れているのだから、自分を大切にして、ゆっくり休んで、また元気になったら戻ればいい」と言ってくれる。
でも、「そうですよねわかりました(うるうる)」と素直に聞くことはできなかった。
一円もお金を稼がず、社会の役に立っていないことが耐え難く、不安で、自分が許せなかった。
お医者さんの言うことを聞いて、ゆったりと無理せず休息している「フリ」だけしているものの、心の中では「早く治さないと。早くレースに戻らないと。このままだと競争から脱落してしまう。幸せの国に辿り着けなくなってしまう」と、猛烈に自分を追い立てていた。
おそらく私は、幸せの国には受け入れ人数制限があって、
早くしないとゲートが閉ざされてしまう、という恐怖でいっぱいだったのだ。だから、休んでいる暇なんて、少しもないと感じていた。
スピリチュアル=最強のチートアイテム?!
この段階で、スピリチュアルや代替療法にどハマりした。
弱っている人間からすると、「心身の不調はすべてネガティブな思い込みが原因!」「エゴを手放して幸せと豊かさへの道を開く!」「ハイヤーセルフからのメッセージを聞いて問題を全て解決!」「量子力学の観点から本物の引き寄せを!」「エネルギーに直接アプローチする人生好転ヒーリング!」とか言われると、すがりたくなってしまうものだ。
表現するのが難しいのだけれど、インスタの投稿でもさんざん言っているように、わたしはスピリチュアルそのものが悪とか間違っているとかは思っていない。
三重に旅行するなら伊勢神宮に行きたくなるし、伊勢神宮に行くんだったら、赤福だけじゃなくてお守りも買いたくなる。…というのはちょっと違うかもしれないけれど、何か大きな存在や力があると信じ、それに想いを馳せたり、慈しむのは素敵だなと思う。
暗い部屋にキャンドルを灯し、エンジェリックなヒーリングミュージックをかけて胸に手を置いて横になっていると気分がラクになったりするし、
本当にしんどい時に、
根拠もエビデンスもなくても、「あなたは大丈夫! エネルギーがそう言っている!」と言葉をかけてもらえるとなんだかよくわからないけど救われる。
問題は、生活の全てをスピリチュアルに結びつけ、スピリチュアル的な観点からの「良い」「悪い」で、自分を含めたあらゆる物事をジャッジしてしまうことだ。そしてさらに悪いことに、幸せの国を目指すレースの “攻略アイテム” としてスピを「利用する」と、とんでもないことになる。
わたしがやっていたのは、まさにそういうことだった。
休職中、なんとか社会のペースに追いつこう、戻ろうとして、
飛びついたのがスピリチュアルだった。
言い換えると、幸せの国を目指すという無理ゲーを攻略するための、チートアイテム扱いしていた。
これを学び、理解し、極めれば、「簡単に豊かさと愛を引き寄せられる」「宇宙の法則をマスターすれば人生は思い通り」だと信じていたし、
信じていたかったのだ。