事件は埼玉県戸田市の葬祭場で起こった。お骨の拾い上げ場面。「あんたにはやらん‼」男性の怒声。「小さいので良いんです‼」女性の悲鳴混じりの声。主人公は門脇恒さんという、異色のゴルフ評論家。私のゴルフの師匠でもあった。旅立ち直後の"お骨争奪戦"――さぁ、ありえない話の全貌を振り返ってみよう。
――by Drifter(Koji Shiraishi)Tokyo Sports Press に約20年在籍した。米国PGA、LPGAのメンバー記者としても活動した。ゴルフブームでは、紙面の拡充において、ゴルフ評論家で作家の門脇恒氏と交流が深くなり、最後の場面にも立ち会うことになった。
☆変人の中の変人
【物を言う・物を書く評論家】
ゴルフ評論家・門脇恒さん。おそらく、変人のジャンルに入れても良いと思う。そもそもはTokyo Sports野球部のデスク、猪狩普さんとのゴルフ繋がりだった。門脇さんは山口県下関の出身。下関商業の野球部で活動。卒業後は実業団でプレー。しかし、本人は小説家への夢を求めて上京。戦後の大御所の一人、(故)藤原審爾さんの"書生”となった。藤原さんは多趣味でいずれもプロ級。その一つに、野球チームがあった。藤原組。1969年の長崎国体に出場している。社会人野球を経験している門脇さんは、この線で藤原さんの門を叩いたと思われる。そして小説家の道へ。
野球を知っていて自ら書ける評論家として、評価が高かった。癖が強かったが、ある意味、Tokyo Sportsにはユーティリティな人だった。もう一人書ける派、プロ野球出身、8球団を渡り歩いた、"ジプシー"後藤”後藤修さんがいた。レジェンド系では、巨人OBの千葉茂さん、東映・西鉄OBの"赤バット"大下弘さん(いずれも故人)たちがいた。こちらはビッグ・ネームで、批判コメントがそのまま見出しにもなった。記者が付いて聞き書きがほとんどだった。
1982年2月28日、米国LPGA、アリゾナ・コパ―・クラッシックで岡本綾子さんが初優勝を飾った。これも一つの起爆剤のようになって、プロレスのTokyo SportsがゴルフのTokyo Sportsになった。日本選手が海外のトーナメントで優勝、あるいはそれに準ずるような活躍をすれば、一面を使い、さらに中の3~4面の見開き面をゴルフに割いた。こうなると、レッスンや読み物などの固定コラムが必要となる。ここで私は、門脇さんから、時折聞いていた賭けゴルフ、いかさまゴルフの話を思い出し、ストーリー仕立ての"闇ゴルフ"の連載を打診した。
「どうでしょう、一肌脱いでもらえませんか?」
「そうですか。あちこちに書いたものをまとめて、手を加えればやれそうですが」
門脇さんもうれしそうだった。フリーの作家だから、書いてナンボ。連載となれば、固定収入が約束される。良い話である。といっても、依頼側との悪くない関係があって初めて成立するのだが……。
ゴルフ闇の仕掛け人たち――スタートから好評だった。爽快ではあるが、もどかしさを併せ持つゴルフ競技に、人間の欲が絡み合ったストーリー。あっと驚くトリックなども登場して、ゴルフのTokyo Sportsの一つの売り物になったようだった。してやったり。
☆ゴルフ・ブーム……我が世の春
【評論家はもてる?】
空前のゴルフ・ブーム。1980年の前半から、波が大きくなり始め、クラブ、ウエアなどののグッズがファッションのように話題になり、売れた。そしてコース造りも大手ゼネコンから中小デベロッパーが参入して、会員権が高騰した。小金井CC、よみうりGCが3億超、相模原GC、鷹之台CC、戸塚CCがi億超……名門と言われる20コースが1億円を超える会員権となった。
新規コースは500万円くらいからセールスされた。しかし、パンフレットのホール写真は、なかなかそれらしいものとなっていたが、実際には四苦八苦で造られた気配がありありだった。それでも売れた、のである。会員権が値上がりする……財テクのツールにもなっていた。また、そういうセールスもあった。「絶対、損はしませんよ」。
すでに評価のあった門脇さんは、大変忙しくなった。”関西のドン”(故)杉原輝雄さんのゴーストとしても知られていたので、ゴルフ・ダイジェスト、パー・ゴルフからの執筆依頼も絶えなかった。さらに新聞などでは、レッスン・コラムの常連にもなった。
門脇さんは自らは片手(5以下) のシングル・プレーヤー。空いた時間は自分のゴルフに打ち込んだ。浦和新日本のメンバーでクラブ・チャンピオンにもなった。
私生活にも変化が起きた。門脇さんの小説に感動した女性ゴルファーからファン・レターが届き、これが縁でお付き合いが始まった。答えを先に明かすと、この女性が戸田の斎場での悲鳴の主である。山陰で服飾デザイナーを営んでいたY女史。仕事で東京で出て来ることも多かった。二人の距離は日を追って近づいた。
それほど時間がかからずに、二人は同じマンションに居を構えた。家族然とした間になっていたが、"同室"とはいかない事情もあった。
門脇さんは若くして、奥さんを病気で亡くしていた。
「もう結婚することはないね。女房がすべてだったから」
何度も聞いていたフレーズだったが、男性がある程度の年齢になって一人というのも、少々寂しい感じもある。ベテラン同士のカップルも良いのかもと思った。二人とも"ゴルフどっぷり"の共通項もある。
門脇さんは少し華やいだようで、何と50歳を過ぎてから、運転免許を取ってしまった。免許を取れば、車に乗りたい。Y女史も喜んでボルボ購入をサポートした。
「板橋のセナでっせ」と門脇さんは悦に入っていた。周囲はあきれていた。
【闇の仕掛け人たち……単行本に】
私は、会社が築地の日刊スポーツ・ビルから、越中島のスポーツニッポン・ビルに移転する時、退社した。まず、ベースボール・マガジン社でアメリカン・フットボール誌の創刊に関り、その後、知人の誘いで、出版プロデュース業へ転身した。
そこそこのギャラを保証されたので、急ぎヒットが必要だった。そこで、Tokyo Sportsに連載した、門脇さんの『闇の仕掛け人たち』を思い出した。さっそく門脇さんに連絡して、意向を伝え、Tokyo Sportsに了解を取ってもらった。
単行本はあっという間に完成した。ともかく元本があるわけだから、連載を整理して入力と進めば良いわけである。渋いシングルヒットっという感じの売れ行きだった。
門脇さんとの付き合いも増えた。ゴルフにも行った。そんな中で、門脇さんがふと漏らすことがあった。
「ここのところ、胃がしくしくしてねぇ。女房も胃の病であっけなくだったから、俺もそうかもしれないよ」
「酒もたばこも飲まないのに、仕事し過ぎじゃないですか。医者に行って診てもらったらどうですか? ストレスだとかって言われますよ」
取材記者から出版プロデュース業。結構なギャラを保証してもらっている。結果が必要だ。ホームランを打ちたい一心で動き回って一年が過ぎた頃、一本の電話が入った。
【えッ!? 映画ですか?】
私のオフィスに電話をかけてきたのは、大映事業部のプロデューサーで、Iさんといった。
「本屋で、ネタ探しをやっていたところ、そちらから出版された、『闇の仕掛け人たち』に出会いました。読んでみると、大変面白い。絵になりそうな場面がいくつもあって、映画向きだと思いました。細かい話をしたいと思いますが……」
大映とは、経営者の(故)徳間康快さんの直属授業部の人たちと、アメリカン・フットボールの企画で付き合いがあった。しかし、映画は全くの別ルートだった。
門脇さんにとっては大変ラッキーな話だったはずだ。オリジナル小説が新聞でデビューし、そして単行本となった、渋いヒットではあったが、それが
映画の話に結び付いた。
ゴルフ闇の仕掛け人たち――ビデオムービーだったが、主演が(故)根津甚八、相手役に椎名桔平、子役で安達祐実といったキャスティングだった。私は門脇さんの指名で"殺陣師"を務めた。主役の根津甚八に、プロゴルファーらしい仕草を伝授する役だった。
ビデオ・ムービーの製作はスピードが勝負。さすがの速さで進行し、二ヵ月ほどで完成した。
門脇さんは完成品を下関の実家筋にも送っている。それまでの単行本なども発刊の都度、送っていると言っていた。小まめに報告する人だったのだが、これが故郷の人たちにとっては、門脇は小説家で成功し、その作品が映画にまでなった。経済的にも恵まれたクラスの人になった、というイメージを描くことになったようだった。
実際は、マンションの自室、ボルボ、ゴルフ場のメンバーシップなどを手に入れるにあたって、”親友”のY女史のサポートを受けていたのであった。すでに"家族然"の生活環境であったから、不自然な事ではなかった。
「借金だらけでっせ、返せんのかなぁ」
門脇さんは苦笑しながら、平然と見栄っ張りの生活を続けていた。酒もたばこもやらなかった。しかし、飲む場は嫌いではなかった。
「たまには飲みに行きましょうよ」
こう持ち掛けると、
「じゃ、きれいなお姉さんの所へ行きましょう」
と切り返すことが何度かあった。行先は銀座八丁目のクラブであった。おそらく、杉原(輝雄=故)さんとの付き合いが深かった頃、連れて行かれて、「小説家の先生」で、顔が知られていたようであった。
門脇さんは銀座八丁目へ行く時は必ず、バラの花束を持って行った。小説家の先生のお遊びの姿であった。
一年半後、『闇の仕掛け人たち』の続編が出来た。門脇さんのイメージは、故郷ではさらにランクが上がっていたのではないだろyか。
映画が二本出来て一段落。こちらは"長打"を求めての試行錯誤で余裕がなくなり、ちょっとした言い合いをきっかけに、門脇さんとの付き合いが途絶えた、
【評論家、入院する】
付き合いが疎遠になって一年が過ぎた頃、ゴルフ・ダイジェストの敏腕編集者、Fさんから電話が入った。
「珍しいですね、どうしました?」
「あのさぁ、門脇さんなんだけど、入院したんですよ。知ってましたか?」
「えッ!? どうなっちゃったんですか?」
「胃が痛いので検査したところ、悪性の腫瘍が見つかって、手術しかないとなって」
「どこの病院ですか? しばらく会っていなかったので、病院行きますよ」
「新宿の女子医大なんだけど、"神の手"と言われる先生のスケジュールに合わせたので、すぐ手術のようで、もう終わってからでないと会えないようです」
こりゃ、まずい。抱えていた仕事をストップして女子医大へ行った。"親族立会人"として、Y女史がいた。聞けば、自覚症状もあったので、伝手を頼って女子医大を訪ね、"神の手"にすがったという。
「あの人、ピースサインで手術室へ行ったんですよ。どこまで見栄っ張りなんでしょ」
診断は軽くはなく、胃以外にも影響が出ていたという。
手術は長くかかりそうで、終わっても、すぐ会えるというわけでもなさそうだったので、引き揚げて出直すことにした。
翌日、Y女史に連絡すると、門脇さんはICUに入っていると。治る見込みがあるってことか?
ともかく病院に行った。確かにICUにいるようだった。
「で、どうなんですか?」
「手術は終わったんですけど、あちこち削除の必要があって、絶対安静で寝たままの状態です。話せるのかどうか」
それでも、一目見ようということで、キャップ、白衣、マスクなどを装着して、ICUに入った。ほとんどのベッドが管で繋がれ、酸素テントをかぶった人たちだった。部屋の奥の方のナースステーションに近い所に、門脇さんは寝ていた。結構な数の管で繋がれていた。これは尋常ではない。一目でわかった。もう一度クラブが握れるようになるのだろうか?
Y女史と共にベッド脇に立った。Y女史は、門脇さんの顔を撫でながら、
「来てくれましたよ。喧嘩していたSさんが。分かりますか?」
私は門脇さんの手を握って言った。
「寝ている場合じゃありませんよ。ゴルフ行きますよ‼」
すると門脇さんは、つぶっていた目を薄く開けて、頭を少し起こしかけた。握っている手にも力が入った。通じたようであった。
胃を全摘、リンパ節も削除しなければならなかった門脇さん。医者からは、「山場は近いと思ってください」と。
☆修羅場が待っていた
【評論家死す】
門脇さんはベッドから起き上がることなく、旧知の仲間と言葉を交わすことなく、帰らぬ人となってしまった。
さあ、ここからはお決まりのシーンが始まる。葬儀屋を手配。病院から板橋のマンションに本人を帰宅させて、祭壇を造る。こちらは、ゴルフ・ダイジェストのFさん共にセレモニーの仕切りを任された格好となって、あちこち連絡をした。下関の実家筋にはイの一番に連絡した。弟さんが窓口で受け、近い親戚を連れて上京した。
門脇さんの実家筋の人たちは、私たちの経過説明と予定を聞いて、感謝の意を示した。
ここから、Y女史の立場が微妙になってきた。しかし、気に留めなかった。我々、東京の門脇さんを囲む人間関係においては、そばにいるY女史は親友であり、"妻"であった。しかし外部に対しては、現実には入籍していないから、いわゆる"内縁の妻"なのだ。法律的にY女史が独身になって、姓を変える目途が付いていたのだが、間に合わなかった。こうなると、こうしたセレモニーでは、どこまで目立って良いものか?
――時間だけが過ぎていった。
【通夜の席で空気が変わった】
通夜の席、私は実家筋の人たちと酒を酌み交わしながら、思い出を語った。実家筋の人たちは、時折、笑みを浮かべながら、「お世話になりました」と、口々に。
しかし、宴も中ごろ、実家筋の人たちの姿が見えなくなった。見渡すと、Y女史が目配せしていた。
隣に座った。
「何かありましたか?」
「それがねぇ。私はメンバーになっている浦和新日本の知り合いが来てくれたので、お礼を言ったり、門脇の使っていたゴルフグッズなど、思い出になるなら、皆さんに差し上げます、と言ってたんですよ。それを下関の人たちあが小耳にはさんだらしく、勝手なことはせんでくれと、顔色を変えちゃって」
私は、その程度のことで……と思った。しかし、こうした席では、故人が残した物はどうなっているのか? が問題になることが少なくない。
結果論を先に述べれば、実家筋の人たちは、門脇さんの残した物を"内縁の妻"が勝手に処分し始めた、と思い込んだようであった。
【告別で火花が散った】
告別式。祭壇には門脇さんの写真の左右に喪主・Y女史の札があった。ずっと付き合ってきた私たちからすれば、それで良いのでは、と思ったが、実家筋にはそうではなかったのだ。小ぎれいな分譲マンションに住んで、外車ボルボに乗って、ゴルフの会員権を持ち、小説家で映画の原作者。故人の残した財産を"部外者”に触らせるわけにはいかない……。実際は小説家の頭脳、ゴルフの腕前以外は、Y女史のサポートで成り立っていたのだ。
「これもおかしいだろ‼」
実家筋の人たちは、祭壇を指さして"抗議"してきた。
「まぁ、今までの生活を見てきたので、良いと思いますが……」
「何が良いんだ。喪主はまずいだろ‼」
ここまでくるとY女史も、生来の気の強さを押さえきれずに言った。
「じゃあ、一つ外しますよ」
祭壇に歩み寄って、喪主札を一枚抜いた。
この瞬間、実家筋の人たちは会場を出て行ってしまった。
導師が到着して式が始まった。実家筋の人たちが消えて、最前列が空席。異様な光景だった。そのまま出棺。我々の心の中に重いしこりが残ったようだった。
埼玉県戸田市の斎場。我々が到着すると、実家筋の人たちは先着していたようで、離れたところで、こちらを見ていた。見張っていたというのが正解か?
「何か嫌な雰囲気ですね」
二階の待合室でも、実家筋の人たちの姿はなかった。
ゴルフ・ダイジェストのFさんも、唇をゆがめながら、つぶやいた。
「お待たせしました。お時間です」
我々は門脇さんを迎えるため、案内されて一階に降りた。所定の場所へ。ン!? 実家筋の人たちはすでに待ち構えているではないか。
係の人の説明の後、二列の川で進んで、二人セットで箸で門脇さんの一部をつまんでツボに納めていく。例の儀式である。
ここでY女史が表に出た。
「私は小さいの一つあればいいんですけど……」
Y女史は紫の布をほどいて、小さな骨壺を取り出した。
すると、実家筋を代表する弟さんが血相を変えて言った。
「あんたにはやらん‼」
「小さいので良いんですよ‼」
「やらんものはやらん‼」
私はY女史をなだめて、その場から離れされた。これ以上、セレモニーが混乱することを避けたいと思った。
【清めの席も決裂】
セレモニー会場へ戻った。祭壇にお骨と位牌を飾り、花と食べ物を備えて席を始める。最初だけ全員が揃っていた。だが、"分骨"の提案"を聞くと、実家筋の人たちはお骨を持って退席してしまった。取りつくシマもなかった。私とゴルフ・ダイジェストのFさんは後を追った。実家筋の人たちは、廊下の端に固まっていた。
「戻っていただけませんか? 門脇さんのセレモニーなんですから、お願いします」
「下関から来て、馬鹿にされて、今さらなんだ‼」
これ以上無理か。仕方なく部屋に戻って、Y女史に説明した。
「残念ながら、下関の人たちは戻らないようです。お骨もあきらめないといけないかも……」
Y女史はそれをうなずきながら聞いた後、さらっと言った。
「仕方ないですよ。色々尽くして分かってもらえないんだから」
何か笑みさえ見えたような気がした。
Y女史は続けて言った。
「あのねえ、私はちゃんと持っているんですよ」
「えッ!? 何を?」
Y女史は座っている座布団をめくって、小さい白い物を取り出して、首をすくねた。
えッ!? それは門脇さんの一部であった。いつの間に手に入れたのだろうか?
愛情の成せる業、執念……私とFさんはにが笑いするしかなかった。
「娘の留学しているアメリカへ持って行って、門脇との思い出の場所に埋めてあげようと思ってます」
清めの席は、静けさを取り戻し、和やかに思い出を語る空間となった。
実家筋の一団はいつの間にか、消えていた。
一週間後、私とゴルフ・ダイジェストのFさんはY女史に招かれ、丁重に感謝の意を受けた。
不思議なセレモニーだった。思えば、門脇さんの出身地、下関の実家との関係なども、それほど知っているわけではなかった。本人も語らなかった。
しかし、女性はたくましいものだ、と思った。どんな底力を持っているものやら。
門脇さんとの縁は途絶えた。たまにマンションの近くを車で通りかかると、そういえば……と脳裏をかすめる。
冠婚葬祭——冠婚は、少々ミスがあっても、祝いの席に免じて、となるが、葬祭は旅立ち直後のセレモニーも、その後、必となるさまざまな手続きも、一つ間違えれば大変な事態になる。事実は小説より奇なり……まさに、その実体験であった。
冒頭に火葬場のロスト・ボールと書いたが、ロスト・ボーンに訂正すべきか?
合掌