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二日酔いで休んでたら、仕事にならない。体調がどうであろうと、まずはニュースを書く。それが流儀だ。酒が残った身体でも、うなりながら書く。そして飲む。酔う。再び書く。一歩外へ出れば、グルメの街、築地は有り難い場所だった。食べたい物が、すぐそこにあった。当時はグルメなんて意識したことはなかった。さてさて、何を食べ、何を飲んで、物を書いてきたのか? 独断と偏見で、食のワンダーランドへのご案内ーー

――by Drifter(Koji Shiraishi) Tokyo Sports Pressに約20年在籍した。K談社などから、原稿を頼まれて書いた。原稿料をもらっては飲んだ。プロレス界のレジェンド記者、大先輩の門馬忠雄さんは、「家一軒は飲んだ」と豪語していたが、こちらも似たようなものだったかもしれない。

Tokyo Sportsが間借りしていた、日刊スポーツビル。

☆酒と酒と酒の日々

【お相撲さんが逃げた】

 Tokyo Sportsの編集局は、築地の日刊印刷ビルの2階にあった。新大橋通りを築地3丁目の信号を聖路加病院に向かってすぐ。ビルの反対には、ビクターの録音スタジオがあった。そしてその前に、カントリー好きが集まるスナック、Any Old Timeがあった。ブルーグラスのプレイヤーたちが、スタジオ録音に集まっては、終わるとAny Old Timeで飲んでいた。
 その集まりの中に、酒の強い女性たちがいた。色気より飲み気、何度かハシゴ酒に付き合った。
 某日、六本木の割烹に流れ着いて、升酒でおだを上げていると、お相撲さんを囲んだ飲み会に遭遇した。我こそは酒豪なりの女性たちは、お相撲さんに闘いを挑んでしまった。お相撲さんも最初はご愛敬でお付き合いしてくれたが、マス酒を五杯も過ぎるころから、「いや~もう勘弁して」と逃げ出してしまった。
 それからが大変、こちらも酔っていたが、我こそは酒豪なりの二人の女性は酩酊。店に迷惑をかける前に、二人をタクシーに押し込んで、送り届ける羽目となった。何やってんだか……。

Tokyo Sportsの運動部の忘年会は、
芸者さんがあきれるほど、高級ウイスキーが並んだ。

【芸者さんが呆れた】

 運動部の忘年会は、毎年すさまじい量と質の洋酒が集まった。それはプロレスを売り物にしていたので、全日本プロレス、新日本プロレス、国際プロレスの各団体が、競うように差し入れをしてくれたからである。
 スコッチはシーバス・リーガルの12年は「いいね」だったが、ジョニ黒レベルはその他大勢、ブランデーはレミーだ、カミユだ、ナポレオンだ……。
 忘年会は熱海や伊東、箱根などが会場となった。部屋に入ってきた芸者さんたちは、一様に目を丸くしていた。
「お宅たち、何屋さんなの? 瓶もらって帰ってもいいですか?」
 芸者さんたちは次の場面でも、再び目を丸くする。
 正体不明の男たちは、高級洋酒をアイスペールに次々と流し込んで、荒っぽくかき回すと、「俺の酒が飲めねぇのか!?」と。
「お宅たち、何屋さんなの?」
 高級洋酒はどんどん消え、男たちも一人、二人と倒れていく。なんて忘年会をやっていたことか。こうした会の首謀者は、大体、Tokyo Sportsを機関車のように牽引した、(故)桜井康雄さんだった。お世話になりました

本格的な蕎麦が味わえるさらしなの里。健在。

【とりあえず蕎麦屋】

 夕方の編集局。夜討ちの予定がない記者たちは、一様にそわそわしだす。若手は先輩の誘いを待っている。どうでも良い者には、声がかからない。ここも実力主義なのである。仕事もできない奴に飲ませても仕方がない……である。
「よう、軽く行くか? とりあえず蕎麦屋で……」
 こう言い出すのは、野球部敏腕記者の(故)川上博宣さんが多かった。
 蕎麦屋は編集局を出て3分ほどの、さらしなの里だった。明治32年(1899年)創業の名店。我々が通っていた頃は新富町のキャピタル・ホテル1号店の近くにあった。現在は新大橋通に面した所へ移っている。
 さらしなには、いつでも樽酒があった。これを桝の角に塩を乗せてチビチビやる。つまみは海苔、板わさ、厚焼き玉子、蕎麦味噌だった。常連だから、メニューにない物、良い鴨が入れば、軽くあぶって塩を振った、なんて粋な蕎麦前を出してくれた。仕上げにせいろを手繰って、ウオーミングアップ完了。「行ってらっしゃい」の言葉に送られて、次へと向かうのである。

蕎麦前も十分に堪能できるさらしなの里。

 数年前、昔のイメージで店に行ったが、見当たらず、少し探して現在地へ到着した。
「引っ越したんですね。昔の場所も良かったよねぇ」
 若主人のような男性は、ちょっと笑いを浮かべながら、
「そうなんですけどね。色々あって」と。
 それ以上は聞けるよう雰囲気でまなかった。後日、やはり、さらしなのファンだった先輩に聞くと、
「何だか、当時の主人が駆け落ち騒ぎをやらかしたとか。気をつけろよ」と。
 こちらは気を付けるも何も、ねぇ。相変わらずの突っ込みを喰らった。

芸者さんの置屋であり、おでん屋さんであった金魚。
建物だけは当時のままだった。

【おでん屋さんで、芸者さん遊び?】

 新富町に不思議な飲み屋があった。〈金魚〉という屋号のおでん屋さん。どこが不思議? と言われそうだが、芸者の置屋さんも兼ねていた。
 東現座から築地界隈は新橋花柳界。
 安政4年(1857年)、金春新道(こんぱるしんみち=銀座八丁目)で常磐津で人気のあった女師匠が付近の料理茶屋で歌・踊りを披露……幕府から、お墨付きをもらったのが、このあたりの"プロ芸者"の始まりだという。
 築地は待合、料理茶屋、料亭があった。今でも金田中、芥川賞・直木賞の選考会が行われる新喜楽は健在だ。

 金魚のお母さんが、置屋のおかみさん。娘さんがエースだった。親子とも気風が良いので、ついつい足を運んだ。一見の客はほとんどいなかった。看板は出ているが、まず入りにくい店だったろう。
 ここにはプロレスのレジェンド記者となった門馬忠雄さん、野球部のパ・リーグ担当だった芝茂男さんらと訪れることが多かった。
 金魚のエース芸者の娘さんはお座敷がかかると出かけた。そして戻ってくると、同じお座敷に上がった仲間の芸者さんを連れて来ることが、時々あった。
「どう? みんなで出かけようか」
 こんな声を掛けると、芸者さんたちは嬉しそうにうなずいた。
 仕事着……着物を着飾った若い芸者さんたちを引き連れて、新橋方面などに繰り出した。といって、玉代がかかるわけではなかった。向うも遊びなのである。傍目には御大尽遊びだから、夜の街では好奇の目にさらされた。それもまた面白かった。
 浮いた話にはならなかったなぁ……ほとんど当時のままの建物を見ながら、中の風景が昨日のことのように浮かび上がった。once upon a time……

酒飲みの聖地、月島の岸田屋。今もって健在である。

【飲んで飲んで――①月島編】

「先に行って席を確保してきます」
 編集局の夕方。駆け出しの若手が月島に走ることが時々あった。喧嘩っぱやい文化部のN.Shimazaki,早めに退社して、茨城方面の議員に転身したH.Ishiiなどが加わると、月島の岸田屋で議論して、飲んだくれるのがパターンだった。
 安い、つまみはうまい、で二合徳利が転がっていった。
 明治33年(1900年)操業。東京の三大煮込みがある。絶品である。

「そんな事言ったって、しょうがないだろう」
 茨城訛りで、Ishiiはグズグズ飲んだ。
 文化部のShimazaki は酒が強かったが、絡み気味の飲み方だった。
「仕事ができねぇのに、ごま擦って出世しようなんて野郎が増えて、困ったもんだぜ」
 私が一緒じゃない時、ハシゴ酒の末、警察官ともめて、右ストレート。そのまま御用になったこともあった。翌日、会社をごまかして、仲間が"受け出し"に行って、事なきを得たことがあった。書いちゃってごめん。

Tokyo Sportsの入っていた日刊スポーツビルから、
勝ちどき方面へ3分。加賀屋。ここも飲んべえの聖地。健在。

【飲んで飲んで――②加賀屋】

「中一つ‼」
「こっちは外もね‼」
 一体なんのこっちゃ!? 焼酎のホッピー割りを頼む声である。中は焼酎。外はホッピーである。焼き鳥、もつ焼き、店の外にビールケースの簡易テーブルを置いて、エコノミーな居酒屋である。健在。ここには整理部の師匠、奈良井澄さんに連れられて行った。
 明治大学の剣道部卒。レイアウトは職人肌で、他社にもその腕は知れていた。
 酒は絡み気味で強い。喧嘩はプロ級だった。先手必勝。四の五の言う前に、ケリをつけていた。棒を持たしたら、まず無敵だったのではないだろうか。
 ゴルフも好きだった。不思議な人で、勝手に良いと思ったコースに乗り込んで、支配人を呼んでもらって、来場の理由を説明したそうだ。
「凄く良いコースだと評判なので、来ました。どこか空いたところで回らせてもらえませんか?」
 支配人は、最初は変な人だと思うそうだが、飾りの無いストレートな物言いに、すぐに理解を示して、以後、距離がぐんと近くなり、「いつでもおいでください」となったそうだ。山梨の都留カントリー、千葉の夷隅ゴルフ・クラブなど、会員のように扱ってもらった。
 奈良井さんは大分前に、出勤途中に脳のトラブルで倒れ、他界された。仕事、酒、ゴルフ、お世話になりました。改めて合掌

会社ビルを出て、通りを渡ると、
ブルーグラスのプレーヤーが集まるAny Old Timeというバーがあった。今は無い。

【えッ!? ブルーグラスの聖地?】

 会社のビルを出て、通りを渡ると、Any Old Timeというちょっと変わったスナックがあった。経営者は電通を早期退職したS.さんだった。カントリー狂い。室内にはカントリー系のアコースティック・ギター、四弦、五弦バンジョー、フラットマンドリンなどが壁にぶら下がっていた。
 時々、S.さんの仲間のような、ブルーグラス・プレーヤーが集まっていた。
 顔見知りになって、言葉を交わすようになると、今レコーディングしてきました」と聞くこともあった。目の前がビクターのスタジオだったのだ。
 ある日、私は高校時代の悪友を一人思い出して、その名をブルーグラス・プレイヤーの一人に話してみた。
「あのさぁ、高校時代にギター、バンジョーを天才的に弾く男がいたんだ。ブルーグラス的な弾き方が得意で……」
「何ていう人ですかねぇ?」
「亀野っていう奴だった」
「えッ!? 亀ちゃん知ってる人!?」
 高3くらいに地元の友人を通して知り合った。酒を飲み、彼の音楽センスに惚れ惚れし、麻雀を盛んにやった。
 亀野達夫。鷺宮高校から確か日大農獣医学部へ行ったのでは。ブルーグラス・プレイヤーとして、日本で有名人だった。現在は旭川で活動を続けているようだ。

 Any Old Timeへは仕事中、仕事後、待ち合わせ、何かと顔を出した。いつも誰かがいた。野球部のデスク、T.さんとにわかデュオで遊んだりした。
 その頃はよく分かっていなかったが、ジャック・エリオット、ライ・クーダ―、ボニー・レイット、トム・ウエンツ、ビル・ニースら、アメリカ音楽の生き証人のようなミュージシャンたちが訪れていたという。まさに聖地だったのだ。
 経営者だったS.さんは大病に見舞われ、だいぶ前に、自宅のある茅ケ崎で旅立たれたそうだ。この人にもお世話になりました。合掌

明治26年創業の老舗。
深川の宮川で修業した創業者が看板を引き継いだ。

☆栄養を付けてニュースを書け‼

【社長のお供で宮川本店】

「おい、蕎麦やラーメンばかりじゃ、良い記事が書けないぞ」
 "百万部per day"への牽引車とも言ってよい、(故)井上博社長は時々、編集局を見回りながら、めぼしい若手記者を物色して、声を掛けた。
「はい、何でしょう?」
 と顔を向ければ、嬉しそうに、
「栄養付けに行くか?」と。
 井上社長はちょっと変人で、パンタロンに胸にひらひらの付いたブラウス的なシャツを着ていることが多かった。
 若手記者の何人かは、「ちょっとねぇ、どういう人なのでしょう?」と敬遠気味だった。
 私は経営者と仕事の話ができるチャンスなので、誘われれば食事に付いて行った。ラグビーの白井善三郎さんの博多水炊きの〈新三浦〉、そしてうなぎの宮川本店によく行った。
「僕は白焼きで一杯」
 井上社長はチビチビやりながら、我々の意見を求めるような感じだった。 
 私は鰻重をほおばりながら、色々としゃべった。鰻ってこんなに美味しい物か? 自分としてはカルチャーショックのような衝撃だった。宮川の裏手て職人さんが日がな、鰻をさばいているのを見てはいたが、一人で入る勇気はなかった。

かちどき近くの住宅街に、鰻の丸静があった。

 鰻といえば、残念ながら閉店してしまった、丸静は外せない。鰻を死ぬほど食べたい時は、必ず行った。迷わず行った。すぐにでもお神輿を担ぐような、気風の良い鉢巻をした兄弟が経営者で、板さんだった。どちらかが、テリー伊藤さんの同級生だったようだ。
 鰻の大きさ、ボリュームで、連、臣(おみ)、尊(みこと)、王とランクされていた。連でいわゆる鰻重、臣でお~ッと。尊からはうなぎが箱からあふれていて、ほんとかよ? であった。もはや、鰻のミルフィーユである。
 今は無い。残念無念。

勝鬨橋の築地側にフグ中心の割烹、天竹がある。
まぁ、大衆という冠を付けてもいいだろう。

【冬はフグでしょ‼】

 勝鬨橋の築地側にある、フグが売りものの、ちょっとだけ大衆割烹の天竹。寒くなると、サラリーマンでごった返していた。我々も、もちろん。てっちり、てっさ……その昔は、鉄砲に当たるような危険もあったから、テツが付く、なんて講釈を述べながら、ひれ酒をぐびぐびとやった。勢いが付いたら、どこかへ飛んだ。

勝鬨橋の月島側にある、かねます。
立ち飲みのフレンチ・バルだ。

【教えたくないフレンチ・バル】

 天竹を出たら、勝鬨橋を渡って、最初の信号で道の反対に渡って、すぐ右手に、かねますがある。開発の関係で二回くらい場所が変わった。何屋とも書いてない。縄のれんが下がっているから、飲み処と判断できる。立ち飲み。おつまみがフランス風って感じか。寒くなればフグのブロック刺身が普通に出て来るし、ウニを松阪牛の刺しで巻いた物もさっと出て来る。何年か前に、一皿2500円だったと記憶する。
 最初の立ち上がりは、河岸のあんちゃんたち相手の”飲む中心の食堂"だったが、内容がかなりのグルメなので、マスコミ連中が通い出し、併せて遊ぼ筋も、となった。もう、普通のサラリーマンは少ないのではないだろうか。立ち飲みだが、決して安くないのだ。店を出て、やっぱり、それなりの値段だよねぇと思うのだが、時間が経つと、また行きたくなってしまうのだ。それだけ美味しい物がある。健在なり。

天辰。てんぷらを思いっきり食べたいなら、一押しだ。

 【築地は海鮮でしょ‼】

 もちろん、その通り。江戸の昔よりのファスト・フード、てんぷら。職人のご指導を受けながら頂く、高くて有名な所はあるけど、行きたくない。自然な心持で、一杯やって、リーズナブルなお値段なら、うれしいじゃありませんか。一押しは健在なりの、天辰だ。
 記者現役時代。
「腹減ったねぇ。サクサク行ってみようか?」
 迷いもなく天辰へ行った。
「おねぇさん、のっけ頼むよ‼」
「あいよ‼」
 てんぷら定食にかき揚げ丼のセット。天つゆは別に付いてきた。ぷりぷりのエビ、ホタテ、サクサクのかき上げ……まいう~の連発である。今、上のっけ丼は1700円とあった。さぁ、行ってみようか。

築地で一番と言われた寿司屋があった。

【隠れた寿司屋No.1】

 新大橋通りの新冨町側に、寿司の名店、多喜本があった。経営者は築地の場内で仲卸をやっていたので、魚には自信があったわけだ。福島の出身だったので、私の師匠、プロレスのレジェンド記者、門間忠雄さんと同郷。もちろん、あっという間に常連になっていたので、よく連れられて行った。間もなくこちらも馴染みになった。野球部記者の芝茂男さん、やはり野球卯記者でサンケイに移って健筆を振るっていた、(故)江尻良文さんらとここで飲んだことを覚えている。
 閉店の理由は経営者の高齢化、一説には駆け落ちなんてのもあったが、それはどうなんだか。閉店は誠に残念。

日本の洋食で、知る人ぞ知る、ヤナギ。健在なり。

【日本の洋食は築地から】

 明治2年(1869年)、築地の鉄砲州に外国人居留地が出来た。今の明石町。聖路加病院がある。そんなことで、洋食が早く根付くことになったようだ。河岸の中に牛丼が最初に登場したのも、築地だった。
 
 キャピタル。ホテルの裏の新富町の住宅街にポツンとあるのが、洋食ヤナギ。ドライカレー、オムライス、カレーとドッキング・バージョン。プラス・カツ、メンチカツ。昼はサラリーマンで込み合っている。代は替わったようだが(当たり前か)、内容は変わらず。うれしいじゃありませんか。

半ラーメンの付いた、日本の洋食。
大変親しみやすいものだった。

 日本の洋食、もう一軒、ヤナギをもうちょい大衆化した食堂があった。大宮。カツ定食に半ラーメンのセット、なんてのもあった。暴飲暴食の記者連中には、格好のエネルギー源だった。
 何年か前、健在風でうれしいと思った。しかし、2024年の秋口に覗いたところ、ちょっとカフェ風になっていた、看板にカレーの文字もあったので、日本の洋食の流れは引き継いでいるようだった。今度入ってみようか。

 さぁさぁ、どこで食べて飲みましょうか?

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