議論や話し合いでは正解にたどり着けない
おはようございます、Dr FJです。
今日は、議論することについて、私が思う事を書いてみたいと思います。
昨今、いろんなところで討論を目にすることが増えています。テレビやYouTubeなどでいろんなテーマで討論していますね。2ちゃんねる創始者のひろゆきさんなんかは論破王として有名ですし、もうすぐ衆議院選挙ということで政治家の方々もテレビで活発に討論をされています。ひろゆきさんが普段理屈にならない理屈で聴衆をけむに巻いている政治家や活動家をばっさあり論破しているのは見ていてすごいなと思いますし、切り口が面白く、個人的には拍手したいような場面もたくさんあります。
また、SNSでも通称レスバ、レスバトルがしばしば発生します。いわゆるクソリプを飛ばす人とそれを撃退する人という構図もありますし、間違った情報やそれを聞いて他の人がまねをすると危ないような情報を発信している人に対して識者が注意するといった構図もあります。やはり、異なる意見の人が2人以上集まれば、必然的に議論が起こるというのが人間の性なのでしょう。
ただ…私自身も長年勘違いしていたんですが、この議論や話し合いというもの…、実は正解にたどり着くためにするものではありません。いくらお互いが自分の知識や弁論術を駆使して話をしても、そこでは正解は決まらないのです。テレビの討論番組などでよく見る話ですが、大抵の場合、お互いが言いたいことを言いっぱなしとなり、何が結論なのかわからないまま話が終わってしまいます。最後には司会者が『まぁ、いろんな意見がありますね』と閉会の挨拶をするのですが、聞いている側としても、結局何が正しいのかわからない不完全燃焼感だけが残ります。最近は単に最終成果物だけを評価するのではなくそのプロセスが注目されているという、 尾原和啓さんが提唱しているプロセスエコノミーなんていう概念もあるみたいですが、見方を変えると手段が目的化しているとも言え、議論そのものからは答えを導くことが出来ていません。
では、正解はどう決まるのか。それは実際にデータを収集して解析したり、日々の取り組みの中で経験したりという現場での積み重ねによるエビデンスで決まるのです。いくら『理論上このワクチンを集団接種するとコロナは抑え込める』と議論して結果を出したからって、それが正解だと証明するには実際にワクチンをみんなで接種し、それをワクチン未接種の集団と比較をして効果を示すしかありません。不動産投資でいくら『今できる再現性の高い方法はこれだ!!』みたいなことを議論したって、結局それで儲かったのかどうか、大きく躓くような事案が発生しなかったのかどうかを何年もかけて検証し、偶然や運の要素を排除することでしか正解は得られないのです。実社会での答えというのは理論と乖離するものであり、それを検証するのはやはり実社会、現場でしかできないことなのです。そして、まだ起こっていない事象、これから実行することの成否は、未来に行って結果を見ることでしかわからないのです。
なので、もしそれでも議論するということであれば、科学の世界では過去に論文として発表されている研究結果をエビデンスとして示すことで正しさの根拠としますし、投資であればこれまでそういう人たちをたくさん見てきたという個人の経験、あるいは過去の出来事の科学的検証結果などをよりどころとして正しさを示します。ただ、これらの工夫をいくら駆使しても、過去にそうだったからといってこれからもそうなるとは限りませんし、少しでも条件が変われば結果は変わるかもしれません。少なくとも、そう主張することは可能なので、ロジカルに考えると『これまでそうだったから次回もそうだ』とはならないので、議論は平行線のままです。なので、厳密に突き詰めて考えるとやっぱり議論をしても目の前の正解にはたどり着けないのです。
では、議論は何のためにするのか。一つは圧倒的な知識者が素人をたしなめたり自分がこういう主張だと言いたい人がそれを見せるというような、議論をエンタメ化して第3者に見せるということでしょう。実際、twitterでのレスバトルなどはその要素は強いです。ただ、これは議論しあう当事者両者にとってのメリットにはなりません。私は、真に当事者が求める理由は『合意を得る』ことなのだと思っています。異なる意見を持つ人たちが集まって、お互いに納得する落としどころを探すというのが議論の真の効用。なので、相手を倒すため、非難するため、罵倒するために議論をするよりは、最初にその議論が何を目的にしているのかを明確にしたうえで生産的に話を進めるのが大事なのかなと思います。
…まぁ、かくいう私も頭に血が上って相手を論破しようとすることはよくありますけどね。理論と実際との間の溝を埋めるのは簡単ではありません(笑)