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EMOARUHITO 閑話 ep.2 僕のエヴァ

また閑話だ。すまん。でももう書かざるを得ないものを見てしまったのだ。
2021年3月8日(月)19:30、名古屋駅近くのシンフォニー豊田ビルにタクシーで乗り付けた僕は、AirPodsのノイズキャンセリングをすぐさまオンにした。大声でこの作品のことを語るやつらに出くわしても大丈夫なように、だ。
名古屋市最強のシネコンであるミッドランドスクエアでは、合計9スクリーンで一日通して「シン・エヴァンゲリオン劇場版:II」を上映していた。前日夜に行くことを決めた僕は、スクリーン11、D-13の一番端の席を一人選択した。前から4列目だが、その席くらいしかもう空いていなかった。

「エヴァンゲリオンとは、一体なんだったのか」

これからまた、この考察は多くの人が行うことになるだろう。行ってくれる、が正しい。
ネタバレを気にする人は、そういう人の発言と、twitterだけ気をつければ良い。
完結までに26年を要した本作品の考察は別の人がやってくれる。しかもその実は「意味をわかりたい」人向けのものだ。考察は考察であり、真実とはいえない。そして、監督がそれを語る場面は、なかなか想像できない。
この作品で真実とされるものは、「僕にとってのエヴァンゲリオン」であり、その咀嚼だと思う。浪人して辛いときに手に入れた音源、人生に迷ってフラフラしていたあの頃に公開された映画。作品に触れる時と場合は四次元的で、誰にも真似できない。しかもその時間軸は、26年という年月にまたがった。旧劇場版をR指定で見ることができなかった僕は、小学生から34歳の中年になり、隣のデスクの女の子は、生まれたのとほぼ同時にエヴァがあった。見た目や境遇は同じ、ということはごくごく稀にあったとしても、この体験に関しての「クローン」はひとつも存在しないのだ。

事前ネタバレを最小限に抑え、考察サイトの巡回も行わず(ここ数年はもう必要なくなった、と言えるぐらい血肉になってはいるが)、どうなるどうなる、とハラハラ緊張していた今作だったが、監督がエヴァンゲリオンで表現したかったことはずっとシンプルなものだっだと思う。それは、親と異性、他人、自身へのコンプレックス。
そしてコンプレックスとは、自身の心が起因となることがほとんどで、それが育てば、認識をすれば、変化をすれば、世界は変わる。エヴァンゲリオンという作品の持つ魅力の正体について、僕の中では、いつからかこの解答にたどり着いていた。
15歳を過ぎて、ようやくこの作品を理解できるようになった僕の心を惹きつけたのは「世界を変えたい」登場人物、そして監督への共感だった。20年ほどの時を経て、34歳になった僕は、今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版:II」でまた、「世界を変えた」登場人物と、監督の思いに共感することになった。150分。本当に良かった。チープな表現だが、こみ上げるものがあった。終盤にかけては、誰かが死んだとか、ものすごい絶望を味わうとか、演出として誘われていないはずなのに、あたりまえのように涙が出た。

冒頭の問いに答えよう。
知り合ってから26年、焼き増しだろ?と思ってひとりで見に行った「序」、はとビルのベランダで話した「破」、女の子を誘って見に行った「Q」、胸に希望を抱き、またひとりで観に行った「シン・エヴァ」。
エヴァンゲリオンは、昨日まで、僕の物語だった。
そしてこれからは、僕の新世紀を僕が描くのだ。

昭和世代へのオマージュ、平成に青春を生きた僕たちへの解答、演出、3D、アクション、CVのサプライズ、作画狂いはいつものことだから眼中にない。(並列して語るべきではないが)鬼滅の後となったエヴァが、令和の世代に語りつがれていくと嬉しい。
いま、この時代にこそ観られるべき、最高のエンタメだと思う。

さらば、僕のエヴァンゲリオン。
ありがとう。

2021年3月9日(火)仕事をしながら

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