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おじいちゃんからの命のバトン

祖父は、元気なら…と記憶を辿る。頭の中で計算する。あの時85歳だった、誕生日の前だった、あれから19年だから…104歳。そして今年戦後80年だから、終戦の時には誕生日を迎えていたはずで…25歳だった(はず)。祖父は終戦のとき25歳、未婚、海軍の兵隊だった。

一昔前、小学校中~高学年には毎年「祖父母に戦争の時の話を聞く」という宿題が出ていたと記憶している。5歳上の姉が行なった祖父母へのインタビューを、わたしも数年を経て行なった。自分もこのインタビューをする学年になったのだと、少し誇らしく感じたのを覚えている。今回は「おじいちゃんからの命のバトン」と題して、祖父のことを振り返る。

母方の祖父は海軍学校を出た海軍兵で、当時のエリートだったそうだ。インタビューの内容で覚えている部分は量としては大変少ないのだが、非常に濃い話だったので息子や娘にも折りに触れて話している。

さて、祖父の命はこうして残った。

「一列に並べ!」

祖父は高らかに叫び、上官も同期もいっしょくたにして甲板に並ばせた。予測できなかった魚雷が直撃し、沈みかけた戦艦の甲板は右往左往する兵隊たちでごった返したからだ。そのまま団子で海に落ちては助からない、と判断した祖父はとっさに冒頭のように叫び、まずは兵隊を落ち着かせた。それからお上にいただいた「命より大事な」銃と剣を捨て、「沈んだら死ぬぞ。俺が最初に海に入る。みんな俺に続け」そう言って海に入った。そこから何人が一緒に生き延びたのか、それが何月何日だったのか、もうインタビューの宿題は残っておらず、わたしも覚えていない。しかし泳ぐ間じゅう、祖父はこう思っていたと言った。

「結婚もせずに死んでたまるか」

たどりついたビルマの島で、腸チフスを患ったと聞いた。それでも「必ず生きて帰って、俺は結婚するんだ」という祖父の気持ちは揺るがなかった。祖父が語ったことで覚えているのはここまでだ。

祖父はなんとか帰還し、最初の結婚で母と叔母の2人の娘を授かった後、伴侶と死別し2度目の結婚生活の末に旅立った。85歳まで自分の歯でモリモリ食べて祖父は本当に健康な人だった。戦後は船の保険会社に勤め、母と叔母は舶来品に縁のある生活を送ったという。その名残か、母もふんだんに外国の文化を生活に取り入れている。他に誰も持っていなかった時代に、我が家のおもちゃ箱にはレゴやドイツ製のグロッケンシュピールがあった。ファーストシューズもドイツ製の革靴だった。台所には分厚い鉄のスキレット、ホットサンドメーカーがあり、パウンドケーキの型もなにやらアンティークなものが置いてあったし、夕飯にフランスパンとビーフシチュー、朝ごはんにはしょっちゅうガレットが出されたのも然り。
祖父は、第二次世界大戦を大人として目の当たりにしながらも、エリートとして戦争に身を捧げ手柄を立てるより、ずっと強い気持ちで「結婚」し「普通の生活」がしたかったんじゃないかと思う。そしてその気持ちが祖父を故郷へ連れ戻し、次へつなぐ命のバトンを握らせたのだと。

22歳にして初めて親族の葬儀に参列したが、それがこの祖父の葬儀だった。わたしの知っている祖父はタバコが好きで刺身が好きな、無口な祖父。一度だけ夏祭りに手を引いて連れていってくれた思い出があるものの、和気あいあいとした交流の記憶はない。いつも「大きくなったね」と見守るタイプ。豊かで厚みのある白髪がすてきだった。あの祖父が母に渡した命のバトン、わたしの手からさらに子どもたちが今握りしめ、ひた走っている。

祖父が一生懸命に命をかけて泳ぎ切ってくれたから、ビルマから生きて帰って来てくれたから、今日のわたしたちがいる。これから先、戦争を直接体験した方たちは数が減る一方だ。でも、その世代から話を聞いた孫やひ孫の代であるわたしたちは、まだ現役の働き盛り、子育て盛り。わたしたちに、祖父母や曾祖父母の話をバトンとして語らせてほしい。一昔前には恒例だった「戦争の話を聞くインタビュー」を、これからもずっと小学生に宿題としてやらせてほしいと願っている。


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