ドラマ:妻、小学生になる。感想1-d

★第一話(その4:ハバネロミートボールの幸せな衝撃!)

 「さっき俺をジロジロ見てた子だよな?何の用だ?」と不審に思いつつ、人の良い圭介は玄関の外まで応対に出て「何か?」と門扉を開けてしまう。

 満面の笑みを浮かべた小学生の少女は「ただいま!」と言うと、圭介の横をすり抜けて勝手に玄関から家に上がって行ってしまった。

 「違うよ、間違えてるよ!」と慌てて追いかける圭介。

 1-cの最後に書いたが、これは圭介達の思考や行動パターンを熟知していた貴恵の作戦である。ここからのコントのような展開は実に楽しい。

小学生「間違えてないわよ。ここは私の家」
圭介「はい?」
小学生「私は新島貴恵、あんたの妻、麻衣の母親」
圭介(に呆れる間も与えず)
小学生「あ、麻衣は?上?」
(圭介が止める間もなく勝手に2階への階段を上がって行ってしまう)

 原作漫画では、テーブルを挟んでの問答で、貴恵が確かに小学生に生まれ変わった事を圭介と麻衣はすぐに受け入れるのだが、ドラマは全く違う。

 正直、初見時には漫画とのあまりの違いに驚き、『原作無視だ』と炎上するんじゃないかとすら思ったが、結果的には、この設定変更は大正解だったと思う。(実際、全く炎上しなかった)

 いや、このドラマで行われた全ての設定変更は大正解だったとさえ思う。
 (※それは本当に奇跡的な事なのだが…)

 例えば、原作には存在しなかった、貴恵の弟である友利君の存在、そして『寺カフェ』と、そこでインチキっぽい霊視占いをするマスターの存在…。

 これらの設定変更があったからこそ、ドラマ『妻、小学生になる。』は、より多くの視聴者にとって『忘れがたく愛しい』作品になったと思うのだ。

 さて、ゾンビのように暮らしていた父娘の前に『妻(母親)の生まれ変わり』だと主張する謎の小学生が現れた日からは、ゾンビ父娘が小学生に振り回される日々が始まる。

 小学生は神出鬼没で、いつも嵐のように現れては、父娘の心を掻き回し、また嵐のように去って行く。ここで興味深いのが、圭介と麻衣の温度差だ。

 初めて会った日に、その話し方や、妻のお気に入りのお皿を迷いもせずに手に取った姿を見て「あり得ない」と思いつつも「もしかしたら」という思いを捨てきれず、小学生を拒否できない圭介。

 一方麻衣の方は『ママのような振る舞い』をする小学生に対して「もしかしたら」よりも「あり得ない」という思いが強く、嫌悪感を隠さない。

 これは恐らく、『恋人~夫婦』と『母娘』という関係性の違いと、一緒に暮らした日々の長さの違い、そして、依存度の違いから来るのだろう。

 しかし、小学生が確かに貴恵の生まれ変わりだと分かっている視聴者からすると、コメディ調に明るく描かれているとはいえ、圭介と麻衣が貴恵の生まれ変わりを信じられず、すれ違い続けるのは実にもどかしい。

 ところで、放送中にあちこちで絶賛されていた毎田暖乃さんの演技力に関してだが、僕はそこまで凄いとは思わない。だが、このドラマの突飛な設定を成立させるのに必要十分だったとは思う。

 アニメなら簡単である。元々漫画の設定にあったように、生まれ変わって小学生になっても、どこか妻の面影を感じさせる外見であるように描いて、声は1人の声優さんが年齢を演じ分ければ良いからだ。

 ところが、ドラマではそうはいかない。外見が違い、声も違えば、それは当然『別人』として認識される。

 石田ゆり子さんと毎田暖乃さんには、外見上の共通点はないし、声質も似てはいない。そして、製作関係者が明かしているが、毎田さんには特に石田さんの模倣をさせようとはしなかったらしい。

 だから、口調やしぐさも、よく見れば全く同じではない。

 では、どうしてドラマは成立したのか。そこに一つの秘密がある。それは『声のピッチ』だ。毎田さんが貴恵を演じる時は、意図してかは分からないが、常に石田さんと同じピッチで発声している。

 口調自体は、実はそんなに似ていないのだが、ピッチが同じである事によって、視聴者は違和感なく『別の身体を持ち、年齢も違うが、同一人物』だと認識できるのだ。毎田さんの才能によって、このドラマは成立した。

 このピッチ(音の周波数)の高さというのは非常に重要で、たとえば音楽家は楽曲を『コピー』する事があるが、この時、もしピッチが違ったら、あるいはテンポが違ったら、それは即コピーとしては失格である。

 ピッチやテンポが違うと、それだけで人間は『別物』と感じるからだ。

 さて、3人の想いがすれ違い続ける日々が描かれる中に、謎の映像が挿入される。8ミリフィルムのようなその映像では、亡くなった貴恵さんが元気でいて、今の圭介や麻衣と楽し気に暮らしている。

 実は初見時には、この映像の意味が分からなかった。それは僕が、8ミリフィルムのリアルタイム世代(1962年生まれ)だからだろう…。

 僕らリアルタイム世代にとっては、8ミリフィルムの映像は『古いもの』『子供の頃』の象徴であり、実際に、8ミリで撮った自分の子供の頃の映像を目にしたりしているからだ。だから、まず時系列的に混乱した。

 なぜ、亡くなった貴恵さんと、今の麻衣ちゃんが一緒にいるのだろうか?それが分からなかった。かなり経ってから、それが『貴恵さんが死ななかった、違う世界線の3人の姿』なのだと分かったが、僕はこの設定にはあまり感心していない。

 いや『違う世界線』自体は良いのだが、それを『8ミリ風の映像』で表現をしようとしたのは間違いだったと思っている(※)。

 何度も言うが、ドラマ版『妻、小学生になる。』は決して完全無欠な作品ではない。突っ込み所も沢山ある。だが、それを補ってあまりある素敵な作品である所に意味があるのだ。

 さて、ドラマ本編に戻ろう。現在のすれ違いに、過去の回想シーンをうまく挟みこむ事で、バラバラだった3人の想いが少しずつ近づいて行く過程の描写は実に見事である。

 特に、これはロケーションの素晴らしさだが、小学生の貴恵に「顔を上げなさいよ」と気合を入れられた圭介が、あの長い階段のてっぺんで顔を上げて見た街の美しさには、何度見ても溜め息が出てしまう。

 街が、本当にキラキラと輝いて見えるのだ。

 しかし、貴恵がどんなに頑張っても、圭介や麻衣の頑なな心の鍵を開く事は出来ず、圭介はついに3人で住んだ家を手放すとまで言い出してしまう。

 最後のチャンスに賭けて、小学生の貴恵は大切な500円貯金箱を抱えて夜の道に一歩を踏み出す。目指す先はドラマ冒頭にも出て来た、あの『にいじまファーム』だ。

 電車からバスへと乗り継ぎ、山道を歩く。小学生の身体にはキツい。降り出した雨に心を折られそうになりながらも、夜明け前にようやく到着した先で目にしたのは、10年間全く手入れされないままの、荒れ果てた家庭農場の姿だった。

 「なんでよ?なんでよ?」思わず崩れ落ちた貴恵。だが、夜明けの薄明りの中で、地面に赤い色が見えた。枯草をよけてみると、あのハバネロが一株だけ生え、実が一つだけなっていた。貴恵の執念が奇跡を呼んだのだ。

 昇る陽の光がハバネロの実を照らし、赤く力強く輝いた。

 「インチキでも何でも、信じるものがある人は、幸せなのかも知れないですね」

 なぜそうなったのか、インチキ占い師だと軽蔑していた『寺カフェ』のマスターに、麻衣は今まで誰にも話さずに来た心の内を明かしていた。

 「あんたとお父さんにね、お届け物を預かってるわよ。あんたのはこれ」 

 綺麗にリボンの掛った箱の上に『新島麻衣さま』の文字。小学生にはとても書けないその達筆は、間違いなく麻衣の母親の筆跡だった。

 リボンを解いて箱をあけると、『まい、おたんじょうびおめでとう』の文字が目に入った。

 忘れもしない、10才の誕生日に母が作ってくれた世界に一つだけのケーキ。それが大幅バージョンアップされた『20才版』がそこにはあった。

 その頃、会社の外のベンチで昼を食べようとしていた圭介の所に『寺カフェ』の他に自転車でデリバリーのバイトもしている弥子がやって来る。

 「麻衣パパ久しぶり」「ああ、どうも」「お届け物です」

 どうやら、弁当らしい。包まれた布を解くと『新島啓介さま これで最後です』と書かれたカードが入っていた。その筆跡は、圭介が何度も目にしてきた、あの妻のものに酷似している。いや、どう見ても妻の字だ。

 そこに、守屋さんが現れる。「ご一緒しても良いですか?」と横に座る守屋さん、だが、圭介の心は既に目の前の弁当に集中していた。

 恐る恐る、弁当箱の蓋を開ける圭介。上にパセリが散らされたミートボールが目に入った。まさか…こんな事が…。フォークを刺し、口に運ぶ。

 舌が甘いソースの懐かしい味を感じた直後に、その衝撃はやって来た。

 それは単なるミートボールではなく、激辛のハバネロがたっぷり入った『ハバネロミートボール』だった。その瞬間、圭介はすべてを理解した。

 10年振りの貴恵の弁当に、二人が出会った頃の思い出の味でもあるハバネロミートボールにむさぼりつく圭介。美味い!辛い!美味いっ!辛いっ!

 ドラマ冒頭のハバネロのエピソードが、このような形で伏線回収されるとは思わなかった。これは漫画の原作をも超える素晴らしいシーンである。

 お恥ずかしい事に、これを書いているだけでもう、涙ボロボロだ。

 ただ、このハバネロミートボールが素晴らし過ぎるせいで、その後、小学校の前で「北朝霞駅のホーム」と始めるシーンが(原作では冒頭である)少し冗長に感じてしまうのは少々残念だったりする。

 また、原作の貴恵は、自分と圭介が傍から見れば『小学生の女の子と中高年男性』でしかない事を良く分かっていて『事案になるわよ』とかなり警戒しているのに、ドラマ版はその辺の認識がだいぶ甘い。

 いくら小学生とは言え、衆人環視の中で「あなたが私にプロポーズした場所」と大声での会話は、ちょっと現実離れし過ぎていると思う。

 それだけでなく、下校時間でごった返している小学生達の中で小学生女子と中高年男性が思い切り抱き合ってしまい、警報ブザーが一斉に鳴る事態となって、学校の先生が飛び出して来る。

 貴恵が「この人は親戚のオジサンです!」と叫んで3人が手に手を取って(この時、圭介の薬指の結婚指輪が一瞬映る!)走り出すシーンも映像的には素晴らしいが、果たして「親戚のオジサン」で胡麻化せるものだろうか?

 とはいえ、そういった欠点も、このドラマの素晴らしさの前では、取るに足らないものでしかない。そこにこだわるのは野暮というものだ。

 ここから先のシーンはもう、全てが素晴らしいが、特筆すべきは、圭介が「ママを送って来る」と自転車に貴恵を乗せての二人乗りのシーンだろう。

 特に、土手の上を走るうちに、万理華ちゃんの姿から貴恵さんの姿に変わる演出は、ドラマ史に残る美しい名シーンではないだろうか?

  ほら、もう書いてるだけで涙が止まらないよ…。


(※とはいえ、番組中には一切普通のCMを流さず、この8ミリ風映像の中に、スポンサーの社名だけを表示する…というやり方には非常に関心した。スポンサー各社さんの英断も含めて、本当に素晴らしい事だと思う!)


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