球団ヒストリー38.断腸の思い
2011年11月19日、夜7時30分。
鹿児島市中央公民館の一室に、神妙な面持ちの男たちが集まっていた。
鹿児島ホワイトウェーブの選手たちだ。
室内練習場ではなく机と椅子が並べられた会議室には、重い空気がたちこめていた。
「都市対抗に出る」?
2005年、欽ちゃん球団とのイベントをきっかけに立ち上がったホワイトウェーブは、翌2006年には社会人野球クラブチームとして日本野球連盟に登録、都市対抗野球大会出場を目指して日々練習に励んでいた。
…はずだった。
しかし現実には、練習は多くても週3回程度、試合前以外に部員全員が集まることはなく、ひどいときは2.3人で練習開始ということも。
公式戦の結果も低迷していた。
2009年の初めに都市対抗一次予選を突破して以降、勝ってもひとつだけ。
もれなく大会エントリーはするものの、ほとんど勝ち進むことはなかった。
勝っても、21-13。およそ野球らしからぬ得点。
負けるときは0-11や1-14と、もう惨敗。
当時のチーム状況を物語ってか、スコアなどのデータがほとんど残っていない。そのため詳しい試合内容までは分からないのだが、この勝ち方負け方で、実力のあろうはずがない。
「都市対抗に出る」
その目標は、すでに絵に描いた餅。
チームは衰退の一途をたどっていた。
球団代表の提案
チームの士気が下がっていることは、球団代表である國本正樹さんも、当時の監督だった末廣昭博さんも感じていた。
ある日、國本代表は末廣監督にこう切り出した。
「やる気のない者はやめてもらいませんか?」
末廣監督はとかく熱心な指導者で、練習には必ず顔を出し、一人ひとり丁寧に技術指導していた。鵜狩前監督が来たり来なかったりだったことを思うと、それはチームとしても心強いものとなっていただろう。
にもかかわらず、選手が揃わない。
いくら熱心に指導しようにも、選手が来ないのではどうしようもない。
「潜在的に力のある選手は多かったから、強くしてあげたいと思っていた」
と語ってくださった末廣元監督。
とにかく野球を愛し、選手たちのことを大切に想ってくれていた末廣監督に「やる気のない者は辞めてもらおう」という提案。
きっと反対されたのではないかと、私は勝手に思っていた。
でも、野球を愛すればこそ、閑散としたグラウンドを見るのは寂しかったのかもしれない。
勝たせてやりたいのに、その想いのやり場がなかったのかもしれない。
やる気のない者、つまり練習に参加しない選手に退団を促すと、もしかしたら所属する選手が半分以下になるという可能性もある。
そうなると、チームの存続も危ぶまれる。
だが末廣監督はその提案に「それでいいと思います」と答えたそうだ。
それくらい、チームは絶望的な状況だったのか…
「やってる意味ないな」
いつだっただろうか、今回の記事のための取材ではなくもっとずっと以前に、球団代表がこの頃のことをぽつりと話されたことがある。
「やってる意味ないな、と思ったよ」
伏し目がちに語るその言葉に、野球少年が抱いた純粋な夢と、そこに掛けてきた大人としての責任や煩雑な事務処理がいろいろに絡み合った悔しさを感じた。
「やってる意味ない」。
やりたいからこそ、そんな言葉になったんだと感じた。
通告
そして冒頭の会議室。
久しぶりに選手のほとんどが顔を揃えたそこに、國本代表の声が響く。
「やる気のない者は辞めてもらいます」
球団としての覚悟が言い渡された。
2011年のシーズンオフは、球団にとっても選手たちにとっても、野球への想いを確かめる時間となった。