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ひぐらし
「パパはビール。なっちゃんと隼人はヤクルトね」
娘が満面の笑顔でビールを差し出した。
晩夏の週末。夕暮れ時になると、ひぐらしの声が遠く聞こえてくる。それが出発の合図だ。5歳の娘と2歳の息子をともなって、決まって散歩に出かけた。
飲み物を口にしたり、道端の虫や草花を観察したりしながら坂道を下った。いつもはヤクルトを一気飲みする子どもたちだが、散歩のときは少しずつ口にする。私のビールの飲み方をまねしているのだろう。ときどき私を見上げては、愛らしい笑顔を見せてくれた。
まだ暑さが残る時間だ。日焼けした子どもたちの首筋には大粒の汗。短く切った髪の先にも汗の雫が光っている。タオルで拭ってやると、小さくにこりとした。
私がヤクルトとビールの空き缶をポッケに押し込むと、子どもたちが手をつないでくる。三人横並びでゆっくりゆっくり歩き、大きな交差点にやってきた。
視線の左側に信号待ちのパトカーが止まっている。「ねぇパパ、見て見て!」とばかり、指をさして教えてくれた。そして手を振り始めた。気づいた警察官が手を振り返してくれた。満面の笑顔で私を見上げる子どもたち。動き出したパトカーに、私は軽く会釈した。子どもたちは「行っちゃったねー」と言いながら、見えなくなるまでその後ろ姿を追っていた。
風が涼しくなってきた。「さあ、そろそろ帰ろうか。今日の晩ごはんは何かな?」と私が言った。
三人で歌を口ずさみながら細い坂道をのぼった。何の歌だったかは覚えていない。右手には娘、左手には息子。その小さな手の温もりだけは今もよく覚えている。
人生最良の日。ひぐらしの声を聞くたびに、あの夏の日がよみがえる。