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聾の友達と久々にディナーに行って思ったこと(※聾=耳が聞こえない)

 こんばんは。
 今日もお疲れ様です。

 いつもより少し遅い時間の投稿になりました。
 今日は、仕事を終えた後、聾の友人に用事があり連絡をしたところ
「今仕事が終わるところだけど、この後一緒に食事でもどうかな?」
という、珍しいお誘いを受けました。


 ちょうど明日仕事がお休みだったこともあり、お誘いを受けたことも嬉しくてすぐに「行きます!」とお返事して、待ち合わせ場所に向かいました。

 どうして嬉しかったのかというと、、、

・夕食に出かけるのが久しぶりだった
・普段忙しい友人からのお誘いだった
・心おきなく手話でやりとりができる

 この3つの理由で、久しぶりにテンションがあがっていたのでした。

 聾の友達は何人かいるけれど、安心して心ゆくまで話せる友人は限られていて、それは聞こえるも聞こえないも関係なく、人間なのだから当然のことといえば当然なのだけど、たまたま私にとって何の気兼ねもなく、手話でゆっくり話せる友人達は、ほとんどが遠く離れた場所に住んでいて、すぐに会えなかったりするのです。

 だから、お互いに仕事だったり、家の都合だったりで、普段はなかなか会えない聾の友人と会って、手話で心ゆくまで話すというのは、本当に久しぶりでした。


 約3時間の手話べりタイム(手話オンリーでおしゃべりする)は、楽しくてあっという間でした。美味しい食事、素敵なカフェのスタッフ達、楽しい手話べりに心も体も満たされ、笑顔で帰ってくることができました。


 私にとって、本当に、本当に、、、

手話は大切な言葉


の1つだなと改めて思うのでした。


 生まれつき耳の聞こえない私は、初めから手話を知っていたわけではありません。聞こえる両親の元に生まれ、周りは聞こえる人たちばかりで手話を使う環境にはありませんでした。聾学校に在籍にしていたのは1年間だけで、「聞こえる人たちの中で聞こえないのは私一人だけ」という環境の中で過ごしてきました。


 聾学校に在籍していた時、簡単な手話を使っていましたが、当時の聾学校は「聞こえる人に近づける教育」幸せへの近道と信じられていたので、手話の使用を禁止して、口話のみでのやりとりを強要されていたこともあり、積極的に手話を使う雰囲気ではなかったと記憶しています。


 そして、口話の上手な子どもはとても褒められるのです。「口話」というのは、話す人の「口の形を読み取る」だけでなく、聞こえない本人が言葉を発する「発語(発音)」も含まれています。

 発語するにあたって、発音がより明瞭であればあるほど素晴らしい、社会に出ても問題ないという見方が当時は強くありました。今でもはっきり覚えているのですが、聾学校に通っていた当時、幼稚部の教室に遊びに行くことがよくあったのですが、今思えば本当に異様な雰囲気でした。

 教室の後ろにあるソファで鬼の形相をしたお母さん達がノートにいろいろ必死にメモをとっているのです。目の前で、発音訓練や言葉の指導を受けている自分の子どもの様子を見て何かノートに書き留めている、その姿からとにかくイライラしているというのは、当時小1だった私にもヒシヒシと伝わってきました。今でも忘れられない光景です。


 話が脱線してしまいましたが、この話については、またの機会に、このnoteでお話したいと思います。

 
 手話についてはいろいろありましたが、手話と出会ったお陰で、手話という言葉が私にとって欠かすことのできない「生きた言葉」となったからこそ、今日こうして聾の友人と心ゆくまで楽しくやりとりができたのです。


 手話という言葉でのやりとりを通して、この楽しいひとときは、私の人生をさらに豊かなものにしてくれました。この楽しいひとときを過ごせたことは、本当に幸せなことだなと、今思い返しても心がほっこりしてくるのです。


 もし、手話を使えなかったら、、、、
 もし、手話を禁止されていたら、、、、
 もし、手話と出会っていなかったら、、、、


 これらのことを想像しただけでも、恐ろしすぎて身震いしてしまいます。


 手話は、目で見る言葉

 手話は、生きた言葉
 
 

 手話のお陰で、友人達と心を通わせたり、リアルタイムに想いを分かち合ったりすることもできた、素晴らしい一日になりました。


 今日の夕食に声をかけてくれた聾の友達に、心からありがとう✨

 今日も、最後まで読んでくださり、ありがとうございました🌈
ステキな日々に心から感謝🌷

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