タイヤ二十代史〜後半〜

2020  25歳

外に出ることもなく髭剃ってなさすぎて記念に撮った

この年コロナウイルスが流行。ありとあらゆるライブ、イベントが中止した。電車も年末年始くらいガラガラだった。最初コロナか〜マスクしてれば大丈夫だろうみたいな感覚だったが、志村けんさんがコロナで亡くなった時はあ、これヤバいなと危機感を覚えた。ライブが中止となるとフリーライブも中止になる。今年ライブに出るぞと目標を立てた矢先にこれだ。この年はお笑いをする場合じゃなかった気がする。それでもちまちま出てたけど。この時のバイトは携帯ショップで画面を初期状態にするというバイトをしてた。人前でやる仕事なので勿論マスクは必須だ。しかしこの時期マスクはどこに行っても品切れ。薬局でマスクありますか?と店員に聞いたらないですと振り向かず即座に言った。何度も聞かれたんだろうなぁと同情した。個人経営してるラーメン屋やカレー屋が30個入りのマスクを売ってたり、メルカリも一枚1000円という破格も破格の転売をしたのを見て正直えげつないなとも思った。コロナの脅威は凄かった。携帯の仕事は派遣バイトであり4月までは仕事はあったがコロナを機に派遣を切られてしまった。5月はほぼ何もなかった。なさすぎて紙工場で働かされることもあった。この年コロナで会社が倒産、人員を減らす為にリストラされることもあった所が多かっただろう。でも、僕のバイト先はそれがなかった。仕事がないどころか緊急事態宣言明けに仕事が急激に増えたらしい。地方の仕事が増えたのだ。携帯の操作の仕事から携帯を売る仕事に変わった。仕事があるのはありがたかった。だが、仕事内容はセールスみたいな仕事だった。件数を取ればお金は増える。社員の評価も上がる。でも僕は、件数が取れなかった。件数をとらなきゃとらなきゃと深く考えてしまいお客さんと話す時に急に凄んでしまい、そのまま流れる。他の人は件数を増やしているが、僕は0のまま。一件取れたらラッキーみたいな感じだった。あの時の社員アルバイト全員俺のことを舐めていたと思う。ただ、仕事は何故かあった。仕事の依頼が多すぎたんだろう、僕は数合わせで行ってた。高崎、伊勢崎、石岡、小山、土浦俺が知る必要ないだろうなみたいな北関東に行かされた。同時にホテルの取り方やタクシーの乗り方もここで学んだ。長野の松本市に行って山賊焼や味噌ラーメンを食べた時はこんな素敵な街があるんだと感動もした。ただ携帯の契約の件数を取るバイトなので件数はいつも通りの0件で社員や現場リーダーに苦言を言われることが多々あった。仕事が入る度に気が滅入ってしまった。特にしんどかったのは家電量販店での仕事。他社を取って欲しいと呼んだのに結局取れず、クライアント先の顔が全く見れなかった。精神が擦り減った感があった。ホテルでバイトの人とワイワイ話をしていた時のこと、社員から電話で説教された時があった。お前明日何件件数取るんだと言われ、無謀な数字を言った。電話を切った後物凄く後悔した。この件数取れなかったらどうしようどうしようとオドオドしてた時、この時の仕事先のリーダーから「お前、何のために東京来たんだ?」と自分の人生のことに説教された。この時に僕はハッとした。僕は何をしてるんだろう?何のために東京に来たのだろう。この時改めて自分の人生を見つめ直した。
今思えばコロナの時期は良くも悪くも自分の人生を見つめ直す事が出来たのかもしれない。普通の仕事は出来ないんだなとこのバイトで実感した。
少し話は逸れるがこの時にルパンレンジャーvsパトレンジャーの話が面白いとネットで言われ、気になりすぎてTTFCに加入した。以来スーパー戦隊ファンになった。

r-1 マヂカルラブリー  野田クリスタル
koc ジャルジャル
m-1 マヂカルラブリー
この年はマヂカルラブリーさん飛躍の年kocのジャルジャルさんが優勝した時はkocの一つの区切りになるなと思った。あとこの年からキングオブう大が始まり、コントってこんなにも奥深いものなんだとコントに興味を持った。

2021  26歳

初めてキングオブコントに出た年めっちゃ太ってんな

この三月辺りで貯金が100万越えそうになってた。
バイトを減らすのは決まってた。ある時に光テレビの案件を振られどうすればいいか分からず社員に聞いたらえ?お前光テレビ取るの?良かったじゃん!と僕が思ってた答えと違いあ、この仕事無理だと確信したからだ。この先どうすれば良いのかを考えた。養成所で高い金払ってコンビを組むか、このままフリーでピンをやるかと迷ってた。この時にr-1が芸歴制限をかけた。色々とテコ入れがあったのだろうが僕はそれを快く思わなかった。決勝をテレビで見た。優勝者に文句はなかったが、進行が早すぎるら決勝進出者を疎かにしてる、バレるの使い回し、メインスポンサーの代表者立ちっぱ云々この大会自体がめちゃくちゃだった。この時にこの大会は近々終わるなと危機感を覚えた。本気で。養成所に行って相方見つけようと決めた。探す時に養成所を吟味した。先ず人力とワタナベ。あそこは受講料が高すぎるので外した。次に太田、サンミュージック、NSC。太田は福岡に行ってたのでもう一回東京で受けるのはなんか違うなと思って外した。残るはサンミュージックとNSC。どちらも受講料は一緒だがサンミュージックは一年通った後に事務所に入れなかった人はもう一年同じ受講料を払ってもう一回受けれるという項目を見て、同じ授業を受ける気はないと思い、消去法でNSCに決めた。NSCの内容はある程度聞いてたので期待はしなかったが、この年にNSCの改革があった年でノンスタイルの石田さんパンクブーブーの佐藤さん笑い飯哲夫さんと現役の芸人さんが講師についた。この人たちの授業がまあ学べる学べる。授業は期待はしてなかったが、得るものは多かった。まだコロナも明けておらず大半がオンライン授業の為、ほぼほぼ家にいた。
 その時に運命的な出会いがあった。太田プロ福岡の同期でいたわくせいアクア君だ。彼は途中で太田プロ福岡に参加した引きこもりの子でその子の独特の雰囲気。ネタ。俺は太田プロ同期で一番面白い子だと思った。太田プロの授業を卒業する一ヶ月前に彼はいなくなってしまったのだ。そしてそれから三年経った日、NSCの授業の一つにコンプライアンス研修というものがある。それに参加しないと吉本には入れないと言われている。僕はそこに参加し誰が受けているのかスクロールした。アクア君の本名があった。思わず彼の名を口にした。この授業が終わった後にアクア君のLINEにメッセージを送った。アクア君本人だった。アクア君のネタがまた見れるとワクワクした。そして僕はというと、相方探しに難航してた。相方探しもオンラインでやる為中々相方が決められなかった。相方探しの為のグループラインがあった。そこで入っていると声をかけられた。NSC最初の相方勝間田君だ。なりふり構わずコンビを結成した。コンビ名はカラスがなくから最初の時期はコンビ名にカラスがつくの多くないか?と講師が苦言を言ってた。笹塚のサイゼに集合し、レンタルスペースでネタ合わせをした。一番驚いたのがkocだ。kocの時期が早いのか最初はコントでネタ見せをした。通るかどうかは分からないがNSCで最初にやったネタで1回戦に出た。ちまちま受けてて通れたら良いなという感じだった。

通った。なんか嬉しすぎて、無意識のうちに外に出た事があった。2回戦の予定がバイトとかぶってしまった為何とか電話で代わりの人を探してもらった。2回戦は落ちてしまったが同期の青いデルタが準々決勝に行った。
 落ちた後はm-1で、漫才を作った。ただネタ合わせの時に相方と揉めてしまい。m-11回戦の再エントリーの抽選が落ちた時にカラスがなくからを解散した。次誰を相方にしようか考えた時にふとアクア君を思い出した。アクア君の世界観が好きで自分だったらあの世界観に入れるのでは?と思いアクア君に声をかけた。アクア君も了承してくれてコンビを組んだ。思えば、色々コンビを組んだ中で声をかけた唯一の相手だった。コンビ名はアントントン。実を言うとこのコンビでネタをやってる時が一番楽しかった。そこから卒業までこのコンビで活動した。
 この年で一番良かったことはここになってお箸の持ち方が良くなったこと。みんなから箸の持ち方が変だと指摘されたが結局直らず死ぬまでこのままかもなと思っていた。忘れもしない1月1日の元旦の日その日は家電量販のあのバイトで休憩中にカップ麺を食べようとした時なんか食べにくいなと思って手を見たら通常の箸の持ち方に変わっていた。それからは感覚を忘れずにお箸の持ち方を意識し現在は普通に箸が持てるようになった。子どもの頃から親から叱られた箸の持ち方がここになって急に良くなるのは不思議な話である。

r-1  ゆりやんレトリィバァ
koc  空気階段
m-1  錦鯉
上京以降賞レースに出なかったがこの年から全賞レースに参加した。
キングオブコントはリハーサルでTBSに行った。決勝の舞台に立てたことが何より嬉しかった。いつか芸人でこの舞台に立ちたい。リハ終わった後家で見たがこの年で転換期が来たなという感じだった。

2022  27歳

m-1出た時のアントントン

NSC卒業して芸歴一年目になった。オーディションライブとスタンドアップの月一本のライブ2人とも無理をしない程度にライブに出た。作家のネタ見せオーディションは様子見で出なかった。マイペースでのほほんと過ごしてたら相方の体調が少しずつ悪くなっていった。日にちを増すごとにお腹が段々と痛くなっていく。心配になった僕はm-1を福岡で受けてそこで休もうと提案をした。
それからはバイト三昧だった。福岡から帰ってきた後は自分もお腹が痛くなり、ネットで調べたところ十二指腸潰瘍になってた。主な原因はストレスだった。コンビ揃って何やってんだろうって思った。初めて胃カメラ入れられたし。薬をもらって何とか治った。肝心の相方はというと未だ治らず、このままだったら相方に迷惑をかけるかもしれないとアクアくんから解散を提案された。正直アクアくんと一緒に売れたかったし、一緒にネタをやりたかったが、本人の病気がいつ治るかわからないと言われやむを得ず解散した。9月のオーディションライブは1人で出た。途中めっちゃ噛みまくった。
 解散発表した直後に同期から組まないかとDMをもらった。会って色々とネタ合わせをしたがその相方から前に解散した芸人と再結成したと報告を受けた。電話で良いだろと思った。そこからはライブに出ずバイト生活だった。コロナも罹った。振り返ってみるとこの年踏んだり蹴ったりだな。後原付を買った。

r-1  お見送り芸人しんいち
koc  ビスケットブラザーズ
m-1  ウエストランド
去年あんだけやらかしたr-1がこんなに成功したのはなんか驚いた。あとこの年ファイナリスト大阪東京吉本他事務所が丁度よくバラけていてなんかバランスが良かった。m-1とkocアクア君と一緒に出れて本当に良かったな。後koc準決を初めて生で見た。そこで見たヨネダ2000さんがめちゃくちゃ面白かったし、自分のネタを作る時にとても影響を受けた。

2023年 28歳

キングオブコント待機中

芸歴二年目。この年の一月、ライブに出なさすぎて流石にヤバいと思ったのか、フリーの大喜利ライブに出ようと思った。ネタが出来てなくても大喜利ならその場で考えて答えれば良いと考えたからだ。その日のr-11回戦の後に大喜利ライブに出た。大事なとこは噛むわ漢字間違えるわ反省点が多かったが、久々のライブが楽しかったそれ以降は月に一回大喜利ライブに出ると目標を立てた。あとそこで太田プロ福岡の先輩てつやくらいむさんにも会った。

相変わらず大喜利は面白かった。東京でネタは見たことないけど。

 相方探しは難航してた。NSCで面白いなと思った人にDMを送ろうとしたが勇気が出ず、そのまま見送った事があった。そんなこんながあって2月になった。2月中に誰からも声がかからなかったらもういっそのことピンでやるかと腹を括った。そして2月後半ツイッターに待ち惚けからDMが来た。そこからLINEを交換して赤羽のマックで会話をした。お試し期間を得てミスミソウを結成した。

白い背景を探したらここしかなかった。

そこから一年ミスミソウとして活動した。ネタは相方が全部書いてそこで俺がここはこうした方が良いんじゃないかと提案してネタを作り上げた。
作家にネタ見せをするオーディションもこのコンビから開始した。だが、オーディションには引っ掛からなかった。待ち惚けには色々と思うことはあるのだが、ネタをやる前に話す話題はなんか面白くて退屈しなかった。それをネタに落とし込めば良かった。
 後一番ショックだったのが、使っていたiPhoneがぶっ壊れたこと。バイトの休憩中に急に電源がつかなくなり修理屋に見てもらうともう買い替えた方が良いと言われた。この年にドコモのゴールドカードを解約する予定だったが、故障した時に携帯に10万補償する特典を思い出した。その時のドコモショップの対応がクソ過ぎた。が、新しいiPhoneを買うために我慢をして何とか買えた。しかし21、22の写真データが一気に消えたのが痛かった。バックアップ必要。この時のクレカの詳細にマイナスの表示が出たのは初めての経験だった。
 あと、この年からコロナが5類化になり、マスクを外す人が大半になった。5類化になっても僕はマスクを付けたままだったが、koc一回戦終わり以降はマスクを外して生活した。投資も始めた。

r-1  田津原理音
koc  サルゴリラ
m-1  令和ロマン
トップバッター不利説を覆した年だった。kocが大いに盛り上がってたがjcom電波の影響のせいで録画ができなかった。クソが。

2024年 29歳

髭を限界まで伸ばした時その時は2ヶ月くらい剃らなかったのかも

芸歴三年目。初物づくしが多かったのかもしれない。初めて初日の出を拝んだ。初めてストリップ劇場に行った。初めてふるさと納税もやった。勇気を出して、先輩に飲みに連れてってくださいと言ったこともあった。良い歳だから何かに挑戦しないとなと思った。一月、待ち惚けとラジオを始めた。ネタ合わせる前にやったあの会話をラジオに落とし込みたかったからだ。でも、いざラジオを始めてみると待ち惚けは受け身になり俺が話題を出したりして、結局ラジオはあまり上手くいかなかった。ミスミソウに関してはコントをやっていたがコントの流れがずっと一緒で流石にこれはどうかと指摘をした。相方と話をしてとりあえず漫才やってみるかということになった。漫才になってからは作家の人も少しだけ寄り添ってくれてはいた。キングオブコントの一回戦終わりに反省会としてラジオを録った。その時にコンビ間に小さな亀裂が入った。そのヒビが修復されぬままm-11回戦が来た。このまま続いたらきっと賞レースは今後勝てないだろうと思い僕はこの1回戦通らなかったら解散しようと決めた。会場のウケ的に通らないなと確信した。ネタ終わった後近くの日高屋に寄って解散を告げた。僕から解散しようと言ったのは何気に初めてかもしれない。8月のスタンドアップのライブでミスミソウは解散した。1年5ヶ月だった。

俺の服のことばっか言ってきてたな待ち惚け

次の相方を考えた時にもし相方見つけたらその相方で最後の相方にしようと決めた。これで解散したらもうピンで行くその覚悟だった。そして、9月警備のバイト中にあるDMが来た

渡りに船だったな

ドロステはコンビ時代に一回ネタを見たことがある。ベタな設定で最後は思わぬ展開になるコントで見てて面白かった。コンビよりもトリオでやりたいなという考えがあった。同期の蓮くんのとことやりたいなと思ってた時にこのdmが来て、正直嬉しかった。それから2人で会って色々と会話をして。僕が加入する形でトリオドロステが結成した。解散しないように頑張る。

トリオ結成する時に急遽撮った写真来年あたりで宣材写真変えるか?

 後この年でようやく奨学金が完済した。7年ぐらいかかった。親への罪悪感が少しだけ軽くなったと思う。
 姉の結婚式もあった神社で結婚式を挙げた。花嫁姿が大奥の松下由樹さんみたいだった。
r-1の予選が今年2回あった。2025年は時期を早めたらしい。もうちょっと早くアナウンスして欲しかった。1回目は1回戦で落ちた。2回目は1回目と同じネタでやった。あのネタが自分の中では面白いと思ってるし1回戦で落ちるようなネタじゃないと思った。予選が近づくに連れてドロステの3人でネタ見せをすることになった。そのおかげか先輩のあざおさんは2回戦に行った。僕はネタを見せて同期の蓮くんからは衣装ちゃんとした方が良いんじゃないとアドバイスをもらった。それを聞いてセカストやジモティースポットで衣装を本格的に探し、そして一回戦当日。その日の2番手で気持ちは落ちてたが、やるしかなかった。

結果発表の反応の動画はブルースカイで上げてます。

通った。2016年のr-1に挑戦して5回目でやっと2回戦に行った。とてつもなく喜んだ。これで三大賞レース1回戦通過を成し遂げた。20代のうちに達成できてよかった。

1人コントでどうしても公衆電話の小道具が欲しくて待ち惚けに頼んで作ってもらった。お前のおかげで2回戦行ったぞ

r-1  街裏ぴんく
koc  ラブレターズ
m-1  令和ロマン 
苦労人が優勝したイメージ。令和ロマンもある意味では苦労人だろう。

こう振り返ってみると、最初の2年はキラキラしてて一度どん底に落ちてそこから這い上がって今に至る、これぞ人生山あり谷ありと言ったところなんだろう。あの時、大学卒業して就職してたら、大学行かずに演劇やってたら、大学辞めて学生演劇祭に参加してなかったらそんなことを考えることがある。でも、最終的には芸人になっていたのかもしれない。
今年も後僅かになった。来年で僕は30歳になる。遂に30代突入だ。僕は高校の頃ある自論を持った。

20代で夢を見て30代で現実を見る

30代になろうとしてる僕は今お笑いを辞めずにいる。これからも辞めないだろう。だって現実を知りすぎてしまったから。2020のコロナの時に携帯の営業で現実を分からせられてしまったから。普通に働くのが向いてなかった。だから、芸人が一番適した職業だと僕は思う。来年は賞レースで結果を残して芸人を続けたい。先ずはunder5からだ。30代大いに楽しもう。

まだまだこれからだ。

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