『粛々と運針』の感想~シゲBDによせて~
まずは、今日は7月11日ということで。
加藤シゲアキさん、お誕生日おめでとうございます!
ということでシゲさんへの感謝とか尊敬の念とか色々綴ったブログを上げようと思ってたのですが、全く完成の目途が立たないので、シゲさんが出ていた舞台の感想を上げて、今年の私なりのお祝いとすることにしました。うそ…これ2022年の事なんだけど…???と、時の流れの速さに慄きつつ、加藤シゲアキさんが出演した舞台の感想を、つらつらと書いていきます。
・人生の話だった。
ほとんどの人が直面する、命の話だった。
年老いた親の尊厳死。
子育てをする予定のなかった夫婦の間に生まれた子の中絶。
全く同じ問題には当たらない人がいるとしても、どんな人にも関係のある、「命」の話だった。
・自分の考えと家族の考えがあって、できれば後悔のない選択をしたい。だけど自分の人生は自分だけのもの?命さえあれば「果たし方」は問われないのか?でもそれは人間らしい生き方なのか?「動物である前に人間」であり、「人間である前に動物」なのだから。
人は1人で生きている訳ではないのだなあと改めて思う。
・私は、さとこの考えに強く共感した。親になることで、自分の人生が自分だけのものではなくなっていく感覚。人生は完璧でなくてもいい、と周囲は言うけれど、それを自分が許せないという感覚。
私にとって「親」というのは、ほかのどんな「役職」とも違う。だって一つの命が、人生が、私の腕に懸かってくるのだから。
仕事で育児のようなことをしているのだから自分の子どもを持ちたいとは思わないのか、と言われたことがある。けれど、私にとっては真逆である。
人を一人育てることの大変さを疑似的にでも経験したことで、わずかながらに知っているからこそ、「親(保護者)」という存在が子にもたらす影響の大きさを間近で見てきたからこそ、自分にその役目を果たすことができると胸を張って言うことができないのである。
・「私が言っているのは全部本当のことやのに」「困ったこと言い出すなあみたいに言って」「後悔するぞと言って」受け入れてくれない夫。マジ何なん。
・ネコの殺処分にはあんなに抵抗がなかったのに、自分の子どもとなると「中絶」という言葉に重さを感じてしまう。「動物も人間も一つの命であることは変わらない」って、みんな、本当にそう思ってる?
・「私に黙って仕込んだんじゃ?」と疑ってしまうくらい、不安になる。人を信じられなくなる。めっちゃわかる。約束したじゃん子どもはつくらないって??私の人生考えてます??ってなるよね。
・「話し合いたいんじゃなくて、説得したいんじゃないの」
話し合いとは意見が違う者が折り合いをつけることだろうけど、これ(中絶)って中間地点が見つからない問題だよな…どっちかしかないから、どうしても対立してしまう。
・「私の命の果たし方は?」「全然意味わからん」
のくだり、「何でこの表現で分かってくれへんのこの夫??????」と思ってしまった。それマジで分からんって言ってる?なんで????????
…と、妻の側にばかり立っていたけれど。
「誰でもできる仕事に誇りなんてないけど、父親という役割があれば」
という夫の願いを聞いて、ああこの二人の主張を一方的に見ていたなあと気付かされた。
一方は手に入りかけているのに手放そうとしているものに対して、もう一方は縋るような思いなのだとしたら。自分がどれだけ願ったって、自分ひとりだけではどうしようもない願いなのだとしたら。
…ただよ、その動機って子どもにとってはどうなのかな?自分がその役割をもらうためだけに一つ…いや最低二つ(子どもと妻)の人生巻き込む覚悟あんの?それを完璧じゃなくてもいいって言うのは、果たして無責任にはならないのだろうか?
・糸の正体を知って、自分はなんて簡単に「この状況だったら中絶一択じゃね?」と思っていたのだろうと思わされた。
自信がないのはみんな同じ。それもそう。発生した状況に対して最善を尽くしてみる。尽くしてみても、どうしようもなくなることもありえる。それはそれで仕方ないじゃないか。
・「子宮筋腫があるんだ、グレープフルーツくらいの。」
「何で言ってくれないんだよ」
「普通言わないよ、本人でもないのに」
こういうのって、そういうものなのか。私もまた、世間知らずだな。
・シゲが演じるはじめはいわゆる「しっかりしたオトナ」ではない。バイト生活、実家暮らし。
しかしシリアスな場面にクスリと笑いを作ってくれるはじめのような人間は、やはり社会に必要だと思う。(やっとシゲさんの話出てきた)
・「兄貴がそうやって喚き散らしているから、冷静にならざるを得なかったんだろ」
なんでそんなに冷静なんだよ、と問われて。感情的な他人を目の前にすると冷めるっていうか、客観視しちゃうよね。私も喚くんじゃなくて穏便な主張方法があるだろと思ってしまう派なので。ただ喚いてでも自分の気持ちの本気度を示した方がよい時もあり…
・「人のためみたいに言っておいて、いつも自分のことしか考えていない」
…ウッ、刺さった
・父親の時のことは忘れているのに、おばさんの時のことはよく覚えてるな
はじめは「長男だぜ」を勝手に背負って勝手に喚いているようにも見えてくる。だけど彼なりに、家族のためにできることはやろうとしているともとれる。
・「子どもを産み育てるのが使命だろ」
はさすがに中の人として加藤シゲアキが入ってるはじめちゃんと言えど「ぶっ飛ばしますわよ???」になった(私の思想の問題により)。あと子ども産み育てる展開がなさそうなはじめくん、どの口が言っとるねん。
・「お母さんはお母さんだよ」「解放してあげなきゃ」
ここのシーンが完全に心に刺さっている。自分の親のことを思っても、やっぱり子どもを持つことで、自分だけの人生ではなくなってしまうなあと思う。いつまでも子どもでいられると思っていていいのか、と自分を叱咤する気持ちになる。
・思い入れのある家を守っていく
手放してもいいと口では言うが、簡単には捨てがたい。管理は面倒だけど、たまには帰りたいんだよね~わかる。自分の家のことかと思ってしまった。なにかあった時に、絶対的な帰る場所が欲しいんだよ。
・大事なのはここに「いる」人間のこれから
糸の正体を知るまでの私だったら、全面同意で終わっていた。けど、今は違う。じゃあ、現世の人間には見えないけれど存在している糸はどうなっちゃうんだ?と。
・「ウチのせいでみんな…」「この二人にとっての大切なものにはなれへんのかな」
糸…!!なあ、そうだよな、望まれて生まれてきたいに決まってるよな!!自分のこと要る要らないってジャッジされてしまうの切ないよな。
このシーンを見て、こんな風に、生まれてくるであろう命と、先に会話することができたらなあと思ってしまう。キミはどう生きたい?桜、見たいよね。綺麗だよ。この二人が親でいいかい?ってな具合に。
実際は正解なんてないし、本人と答え合わせができるのなんて数年かかるし。
・糸と結が何者であるか理解した時、やられた…!!!!!!!!!!と思った。とても上手いなあと思った。この話において関西弁を喋っているのは、さとこと糸だけなのである。そんな方法があったか。
・とりあえずネコを探す、というのは、おうすけなりにさとこに歩み寄っていることの現れなのかなあと思う。ペットは飼わないという約束だったから。
・留守電を聞いて、「家族の前で泣くのが恥ずかしい」と言っていたはじめが泣いたのは、手遅れだったからだろう。
そうなるとお母さんの最期を看取ったのは、金沢さんだけだったのだろうか。
それでいいのか?行かなくてよかったのか息子たち???とは思うし、自分の親の死になんか向き合いたくないという気持ちも痛いほどわかる。
・人生の終わりは冬と相場が決まっているのだろうか。
「冷たい病室で」息を引き取ったおばさんも、
息子がニット帽を被るような季節に旅立ったであろう結も、
イチョウの黄色の絨毯が消えゆく頃に往生した私の祖父も、
世間が年越しに向けて騒がしくなっていく頃に去っていった私の祖母も。
生きている者には冬を耐えればまた春が来るが、人生全体を四季で考えたとき、冬の続きの春は来ないの、あまりにも辛くないか。そのまま冬を過ごすなんて辛すぎるから、彼岸は少しでも暖かく安らかな場所であることを願う。
・やっぱり、私は人の怒りに触れることが得意ではないなと思う。
最近見た別の劇も、本音をぶつけあって仲直りをする、という話だった。また別の劇は、自分の半生を振り返りながら、理不尽に対して怒りをあらわにする主人公がいた。
自分の本音を言葉にするということがどれだけ大変であるか。
波風を立てない、和を以て貴しとなす、それがモットーの私には、辛く感じてしまう。辛いけれど、これから生きていたら避けられない時もあろう。
この『粛々と運針』で、誰かの意見を肯定すれば、誰かの意見を否定することになってしまうんだなあというとても当たり前のことに気付かされた。当たり前なのだけど、つい忘れがちで大事なことを思い出す機会になった。
・まあ自分が同じ状況になったら産みますか?っていう問いに「はい」と自信もって答えられるかというと、今もそうじゃないんだけど…
自分ひとりの人生だけじゃ経験しきれなくて到底追いつかない想像力というものを、少しでも鍛えることができたんじゃないかな、と思う。
・別れが辛かろうが、一生向き合いたくない問題が目の前にあろうが、時計の針は粛々と進んで行く。無情なようで、その無情さが人を成長させたり、何かが解決したりすることもある。
・この素敵なお話に出会わせてくれてありがとうね、シゲちゃん。
PS.見学に親友が来ていてカーテンコールでニコニコしてまうシゲちゃん、かわいいかったです。
・・・さてここからどうやってシゲさんのお誕生日に話戻そうか、と思ったときに、
「生まれた事 出逢えた事 (今傍にいれる事) ありがとう」
に帰結しました。
ほんとそれに尽きる。
同じ時代に生まれてリアルタイムで加藤シゲアキさんのお誕生日をお祝いできていること、ほんとに奇跡だと思う。
100年くらいしかない人生の時間がたまたま被って、こんなに推せる人に出会えているの、ほんまにすごいと思う(あかん、本文で語彙力使い果たした)。
重ね重ね、おめでとうございます!!!これからも加藤シゲアキさんに幸あれ。
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