いじめられっ子の私が好きなことに出会えたことで前向きに生きることができた話
無意味に嫌われ、いじめられた幼少時代。
私はいわゆる”年中さん”の時に幼稚園に入りました。
その幼稚園は年少の時から入園している子がほとんどで、私以外はみな
もうすでに子供たちのお友達グループが出来上がっていました。入園初日、背の順の列に「あなたは前から2番目に入って」と言われ、「前の人の肩に手を置いて歩きましょう」となったとき、私の前にいた子に「触らないで」と冷たく突き放されたことが私が初めて家族以外の他人とコミュニケーションが発生した最初の記憶です。
私はとにかくとてもいじめられました。
私の心のなかは「友達が欲しい!一緒に遊びたい!」だったのに
上手く輪の中に入ることができずにいつもぽつん。
時には砂をかけられて誤って飲み込み、吐いてしまったり
ぐるぐる回る遊具からおろしてもらえなかったり
ドッジボールで羽交い絞めにされ執拗にボールを当てられ、外野にいつまでも行かせてもらえないということもありました。
親にいじめられている事実、幼稚園が嫌いだった気持ちをうまく説明することができずにだんだんと自分を責めるようになっていきました。
小学校に上がって改善するも…
小学校に上がると、幼稚園の時ほどの身体的ないじめはなくなりつつありました。
それでもじわじわと続く嫌がらせに、ある時私は「やめてよ!!」と
いじめっ子に怒鳴ったのです。
それからピタッといじめが止み、少しずつ少しずつ
周りの子と会話するようになっていき、友達ができ始めました。
でも、人との距離感が分からず仲良くなっては嫌われて喧嘩することもしばしば。先生とも馬が合わず、自分の暗黒時代でした。
そして小学校4年生のある時、親の事業が失敗し急な転校を強いられるようになりました。
「私明日転校するんだ」とクラスの子にいうと「は?うそでしょ。私たちの気を引きたいだけでしょ」と言って信じてもらえなかったその日の夕方(いわゆる帰りの会)、私が明日転校する旨を担任がクラスメイト全体に伝えてくれました。
でも私は正直さみしくもなんともありませんでした。
その時友達だと心から思っていた子は誰もいなかったんですから。
次の日、最後の登校をするとみんな別れの品やらお手紙やらを渡してくるのです。「みんな私のこと友達なんて思ってなかったくせに、転校するってなったら友達のふりしてきてなんなんだろう。私の言うこと信じてくれなかったくせに。この珍しい状況にみんな舞い上がって浸りたいだけでしょ。」みたいなひややか~~な気持ちでいたことを今でもはっきり思い出します。
「そんなこと思ってないくせに」って喉まで出かかってました。危なかった…
それでも、転校後も学校に馴染むことはできませんでした。
前いた学校より、派手な子が多かった転校先では、いわゆるヒエラルキーは下の下の下。そして人より汗っかきだった私は男子生徒から「家畜」と言われていじられていました。
中学校に上がって出会った好きなもの
転校先でできた唯一の友達ともクラスが離れ
学年が上がっても何も変わらなかった”学校の楽しくなさ”。
朝はなかなか起きることができず。夜は不安で眠れず。
足を引きずるようにして学校に行っていました。
クラスに友達を作ろうとして頑張ってもうわすべり。
結局そのまま小学校を卒業しました。
しかし、中学校に上がっとき、「変わろう」と決意しました。
私は当時TV番組の『ココリコミラクルタイプ』というコント番組が大好きで
俳優や芸人さんたちが本気で楽しそうに、真剣にお芝居をする姿に
憧れを持っていました。
中学校では、それに近いことがやりたくて思い切って演劇部に入部しました。
この”演劇に出会ったこと”が私の人生を変える最大のきっかけになりました。
私の価値観を変えた演劇と恩師
家族は「あなたにそんなのできるの~?」と私が演劇部に入ったことが信じられないといった様子で「まぁ、頑張ってね」という感じ。
初めての大会では、講師講評だったO氏に「演劇を舐めるな」と他校の生徒もいるまえで叱られてしまうぐらいのクオリティしか作れなかった私たち。
しかし、そこから私たちは突然火が付き、日々稽古に励んで自分たちで研究を重ね、次の大会では最優秀賞を受賞するまでとなり、私自身もめきめきと演劇にのめりこんでいきました。
はじめは講師のO氏のことが怖くて嫌いでしたが、いつも喉を潰していた私を気にかけてくれるようになり次第にO氏が演出を務めていた劇団に誘ってくれたのです。
そこは高校生~30代のいる劇団でした。
勇気を出して行ってみたものの、慣れるまで相当時間がかかり
いつも緊張して異様な”がに股”で歩いていました(笑)
しかし、だんだんとその空間にとても心が救われるようになっていきました。稽古終わりは次の日の学校が苦痛でよく泣いていました。それでも、何とか学校を休むことなく通い続けられたのは、演劇を通して「自分の視野は狭い」ということを体感できていたからだと思います。
今いる場所がすべてじゃない。
この嫌いな学校という場所が、私にとってのすべてではない。
学年が変わったら、高校生になったら、
大人になったら…
きっと環境が変われば、感じている気持ちも変わる。
中学生だった私は、演劇をやっていたおかげで
このことを心から信じることができていました。
演劇、お芝居という体験を通じて人にはたくさんの物語があることを知り、
演じることによって価値観の多様性感じる。
そのころから徐々に人との距離感やコミュニケーションを考えるように
なっていました。
父の死で得た”強く生きねば”
それでもやっぱり学校は苦痛で、苦手な人たちが9割を占める環境に
毎晩泣く生活は続いていました。
そのまま時は過ぎ、15歳の冬。受験も間近というところで
父が急逝したのです。
突然倒れ、意識が戻ることなく3日後。
突然の別れでした。
経済的な状況から、受験を控えているというのにも関わらず
またも引っ越しをせざるを得ず、私の気持ちは混乱したままでした。
毎晩泣く生活がさらに激しくなり、目の下の皮が剝けてしまうほどでした。
「なんでこんなに嫌なことばっかりあるんだろう」
自暴自棄になって「もう受験もいいや。」という気持ちになりそうになった時、そんな状況下でも私の頭に演劇の経験がよぎりました。
「今この状態が永遠に続くことはない」
「自分が変われば何かが変わるぞ」
「こんな状況だけど、でもだからこそ強く生きてやるほうを私は選ぼう」
好きなことがあったから、そしてそれが演劇だったから
演劇の経験があったから自分を蔑ろにしないで生きてこれたと私は思う。
お芝居を通してたくさんの生き方や人に触れ、価値観を知り、
誰かの言葉を通して疑似的にコミュニケーションをとることで
他人の気持ちを考えたり、受容したり、自分の表現を出せるようになったり
した。そしてこの経験があったから、あの時状況に屈してしまうことなく
前向きに物事を考えることができたのだと思う。
高校に上がると、友達が増えた。
いじめや悪口がぱたりとなくなり、楽しくてしょうがなかった3年間を過ごした。
大人になった今でも演劇とかかわり続けているが、
まず『好きなものがある』というだけで気持ちのよりどころができて
自分というアイデンティティを保てる。逃げ場になる。
演劇でなくてもさ、好きなものがあるって本当に大事なことだなって思います。
今は心から大好きな人達に囲まれて、
子供時代からはとても考えられないほど
明るく社交的になり、今は夜泣くことはなく(愛の不時着とか見て泣いたりしますが)とても元気に生きています!
演劇をやる、という選択肢を選んだ自分の決断は
今まで生きてきた中で自分を一番ほめたいポイントであり、
ありがとうとさえ言いたい。
学びとしての演劇
別に好きにならなくてもいいから
子供達には体験として演劇を通過してほしいな、と感じます。
というか、とてもお勧めしたい。
コロナ禍になって、マスクで顔が見えなくて
人と開放的なコミュニケーションがとりにくくなって
SNSが発達して、相手を中傷してしまうことが世の中的に増えました。
現代の日本は、これまで以上にコミュニケーションが学びづらい
世界になっていくなぁと最近とても感じます。
演劇で人とのかかわりを学ぶことができるよ、ということ。
自分が実際に演劇から学びを得たこと。
そして何より演劇は面白いということ。
私は少しでも子供に伝えていきたいと思っています。
そして今はそのための準備をしています。
そしてその話はまたの機会に…。
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