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『1万円 ピン札 物語』~とある後輩くんとの思い出~

後輩の太田は岩手県出身。明治大学を卒業後、財閥系ではないIトゥ中という、外苑前にある大手商社にいた。しかし、同僚たちは会社の名前だけで調子に乗ってる高学歴どもだった。そんな環境に嫌気がさし、25歳で魑魅魍魎、血を血で洗う24時間365日、ほぼ戦争状態の外資系企業に転職してきた。欧米の外資系企業は基本的に新卒一括採用など時代遅れの雇用はしないので、同僚もおらず(一番、年が近くて4歳上)最初は面食らったようだが、血ヘドの努力、背水の陣、鬼気迫る感じで懸命に働きくらいついていた。

半年が経った頃だろうか。

ランチに誘っても来ないので忙しいのかと思ったが太田は今、そこまで忙しくないはずである。やや気にしつつもランチ後、私はオフィスに戻ろうとすると「おにぎり数個」と「オフィスで汲んできたであろう水筒の飲み物」を寂しそうに公園でランチをしていた太田を発見した。

ただごとではないのは明らかだった(千里眼でも血だらけの落ち武者が見えた)。

親類の不幸なら報告すれば休みになるシステムはあるが、特に何も言ってこない(背後は落ち武者だったし・笑)。仕事も、こなせるようになっているどころか、私を含む、猛者すぎるパイセンたちが鍛え上げたのでむしろキレキレな社会人になっており、来期は昇給昇進は確実な状況だった。こうなれば金銭関係か女関係の2択しかない。その週は様子をみてランチも誘わずにいると、やはり公園でまたリストラに会ったサラリーマンのように、コンビニおにぎりと水筒でランチをしている。

何かがおかしい(落ち武者も相変わらず憑いている)。

金曜の夜、問い詰めると太田は借金をこさえていた。伊藤忠では家賃付きの、いたれりつくせりの寮(クリーニング代とかもタダ)だったので生活費の計算が大卒のままだったのである。憔悴しきるほど落ち込んでいたので、借金を肩代わりして、その場で10万を渡して「美味いモンでも食って土日で回復しろ」と伝えて帰した。

借金の額は「たった」といっては悪いが53万円だった。

20代にとっては大金か….。

責任感が強い太田は金額よりも生活費をマネジメントできなかった「自分への不甲斐なさと仕事ができるようになって調子に乗っていた自分への苛立ち」で落ち込んでいたように思えた。逆に20代後半の男が、ここまで落ち込むほど反省し、公園ランチで踏ん張ろうとするのは凄いなとも思った。大手商社に見切りをつけ、このハングリーさがあったので仕事人としては急成長できたのだろう。その分の反動で、私生活で散財してしまった。新人でも外資系の給与は高いので、その影響も考えられた。

その後、太田は給与がでると、1度にそんなに返すか?と言わんばかりに、生活費を計算してギリギリに抑え、十数万づつ律儀に岩手の土産(名産)を利子として持ってきて3か月(3回)で完済した。ちなみに「借金の肩代わりの利子は岩手の美味いモンでいい」と冗談でいったのを真に受けていたようだ。

あれから10年以上が経った。

太田は欧州支社で経験値を積んだ。

今では別の外資系企業で剛腕を唸らせている。彼の進化は我々の予想を遥かに超えていた。そんな太田から「D総司令官!日本勤務になりましたので是非、食事でも!」ということで久々に会った。そこで太田は真っ先に「これはあの時のお礼です」と、いきなり1万円の10枚のピン札をくれた。

なんじゃ、この10万は?

太田は「やっぱり!」とニンマリとした。肩代わりした借金は秋田名産という利子付きで返してもらったが、飯を食えと言った10万円は返していなかったという。律儀な奴だ。

太田は続けて言った。

「よく見て下さい。その1万円のピン札、連番なんです。あの時、飯を食えと頂いた10万円も連番のピン札で、それをもらった直後、すぐ使わないと生活できない自分が悔しくて実は帰り道で号泣しました。自分に対する悔しさと、D総司令官の優しさと、やっとまともな食事ができる安心感で感情が崩壊しました。人生で初でした…。」

と、いきなり熱弁をふるうので「お前、久々なのに重たいな~」というと「あ、すみません、思わず…」と我に返った。

「ところで太田、このピン札で連番の10万円は素晴らしいが利子がないやん!」と茶化してみた。

「そうくると思ってました。ここは銀座の五明(秋田牛の名店)ですよ。五明を余裕でおごれるようになったのを利子とさせてください。」

私は、トイレに行くふりして嬉し涙を流した。

了。

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