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第7献 生かされるということ(後半 完結…多分)

ついに完結❕❕ 多分……💧

『雨垂れ石を穿つ』✨✨✨✨✨

新宿修行時代に、現在の営業styleを確立しつつあった僕は
「日本酒の店をやりたい」と思うまでになっていました
そんなある日、一本の日本酒と出会ったのです

株式会社福井弥平商店「萩の露 雨垂れ石を穿つ」

『感動、興奮、驚きを表す感嘆符「!」は、日本語で「雨垂れ(あまだれ)」と読みます。確かに「!」の形は雨滴の落ちる様を思わせます。
この「雨垂れ石を穿つ(あまだれいしをうがつ)」は、江戸時代に行われていた「十水仕込(とみずじこみ)」という手法で造っています。

この古(いにしえ)の手法が生み出す味わいは、一言で言えば「!」……(株式会社 福井弥平商店 HPより抜粋、以下略)ー

※『雨垂れ石を穿つ』とは…中国の故事。小さな努力でも根気よく続けてやれば、最後には成功する。点滴石を穿つ。(枚乗伝より)』


この文章を読んだ時、思いました
何か…僕にピッタリ

将来やる店の名前はコレにしよう❗✨(*´∀`)

そう決めた半年後、繁盛した伝説の店は
4年半で閉店するコトになったのです

『波乱の始まり』✨✨✨✨✨

社長の意向により『業績の悪い、本店の立て直し』のため、『業績が良い支店』を閉めるという、何とも不条理な幕切れとなりました

店長と僕は、本店に移るコトになったのですが

軽い発達障害の僕は
50席もある、沢山のコトに気を配らなければならない仕事内容と
大所帯の本店に馴染めず
僅か1ヶ月で辞めてしまいました

『おでん屋→蕎麦屋』✨✨✨✨✨

次の職場は、日本酒を40種類取り揃えてるという触れ込みで入った『蕎麦居酒屋』

燗を浸けるとき、それまでは『おでん缶』
この時は『蕎麦の釜』を使ってて
普通のお湯で温めたことがありませんでした( ̄▽ ̄;

(話が反れました💧)

40種類にワクワクして入ったのですが…
『全て火入れ』

なんじゃコリャぁーっ❕❕
オマケにスタッフが性格悪いヤツばっかり❕
そして極めつけが、戦争の様な『ランチ』❕❕
『蕎麦屋』だからね…
一気にテンション下がりました⤵・゜・(つД`)・゜・

一応『店長候補』で入ったので
早朝から深夜まで働いて
時には帰れず、NETカフェに泊まることもあり

マネージメント覚えて、早く辞めたいと思っていました💧

それでも僕なりに、日本酒の面で改革し
何とか頑張って働いていた3ヶ月目のある日
忙しさに少し慣れたので
暫く行けてなかった中野新橋の店に行くことに…

『運命かもしれません』✨✨✨✨✨

元々中野新橋に20年住んでいて
日本酒に目覚めてから通い始めた地元の店

おでん屋を辞める前の年に、父が他界し
母親が独りになってしまう為、川崎市の実家に戻ったのですが
それでも、ちょこちょこ顔を出していたのです

しかし、蕎麦屋に移って忙しくなったので
疎遠になっておりました

久々に訪れたその店は、福島の会津関係の呑み屋
そうです、またまた『運命の福島』なのですが…
その日はチョッと勝手が違ったのです

店長『タカさん、今日会えたのは運命かもしれません❗』

僕(タカ)『え?』

店長『日本酒の店やりませんか❕❔』

『会津の店』の近くに2号店があって
その店を閉め、繁華街に新店舗を出す計画があると云うのですが
空いた2号店のハコで、店をやりたい人を探しているとのコト

そこへ、ご無沙汰だった僕が突然現れた訳です

えぇーっ❕❔中野新橋で日本酒BAR❔ムリでしょ➰💧(;´д`)

それが最初の感想でした

『大器晩成型?💧』✨✨✨✨✨

その話を戴いたのが、2017年の5月半ば
『今じゃないな』と思ったり

ぼんやり『いつか店やりたいな~』
と思いながら、資金も貯めていなく

自分で何かした結果でもなく、降って湧いた
(まぁ、日本酒のアドバイスは沢山しましたが)
条件的にも悪い話ではなく

よくよく考えると、僕は

何者かに成っていたい

と思っていた『50代』になってしまっていて
この話を受けなかったら
『日本酒BARをやる』という夢は
本当に『夢で終わってしまう』かも知れない…

色々考えましたけど
気付くと6月の半ばになっていて
返事の期限は7月末まで

あれっ❔

もし会社を辞めるとしたら
少なくとも、1ヶ月前に………

もう言わなきゃ❗( ; ゜Д゜)

小さな頃から

『大器晩成型』

という山羊座の占いを信じて『のんびり』生きてきました

思えばもう50過ぎ…
そうなんだね、神様…『期は熟した』

こうして僕は決意したのです

『雨垂れ石を穿つ 日本酒BAR』始めますっ❕❕

つづく✨(*´∀`)
(やっぱり終わらない💧)

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