雪原の狼少女
寒い。
数百年前は太陽がいつも照らしていたと聞くが、今は太陽がその姿を見せるのはとても珍しい。かつてこの時期、生命の躍動がそこかしこに見られ、輝ける陽がまばゆかったと伝え聞く。
しかし、今はそうではない。
昔、愚かな人間が起こした『何か』のせいでこの星は変わってしまったと、私の一族は伝えている。
私は狼。母や兄弟とは姿形は違う。それは私が人間だからだ。それでも私は狼。誇り高き森と霧氷の守護者。だから、今は私達狼の世界。地の支配者。この雪原の王。
人間の姿は、太陽よりももっと珍しい。彼らは脆弱で、自分達が起こした変化に耐え切れず、次々と死に絶えていった。たまに見る彼らといえば、他の生き物に踏みにじられ、生きた肉として追われるだけの存在。
寒い。
まだ私が幼く、母の胸に抱かれなければ生きてゆけなかった時、私はこの姿ゆえに迫害を受けていた。
森の賢者と謳われる梟。
彼らはその眼差しで、私や母、兄弟を射殺そうと常に森の中から見つめていた。
私達と似て、それでも非なる山狗。
私達に劣る彼らは、攻撃の対象を見つけた事に狂喜し、私を喰らおうといつも付け狙っていた。
狡賢く、姿を見せない狐。
山狗共よりも弱い悪党は、姿を隠すという特技によって、見えない脅威になろうとしていた。
母は私を護り、兄弟達は敵に対し牙を剥いた。そんな彼らに、私は心から感謝している。だから、私は狼。例え姿が違おうと、毛皮ではない衣服を纏おうと、心は誇り高き高潔な獣なのだ。愚かしい人間のそれではない。
寒い。
歩く先に、人間がいた。
四肢が食いちぎられ、もう永くは無いと分かる。特別な感情など湧かない。私は狼。
「お……お前、人間か……?」
その男は、私の姿を認めると、先を歩いていた母や兄弟を無視して話しかけてきた。狼には人語を解する能力が無いと思っているらしい。
「俺を……助けてくれ………」
狼は人語を解する事ができる。いや狼だけではない。梟も山狗も狐や狢でさえも、人間の話す耳障りな言葉を理解できる。ただ、それを話す能力が無いだけだ。
「何でも与えてやる……。何が欲しい……? 服か? 食料か? 分かった、金だな……? いくらでもやる。だから……助けてくれ……」
人間とは、なぜこうも愚かしいのだろう。自分がそれと同じ姿をしていると思うと、吐き気と怒りがこみ上げてくるのだ。
寒い。
〈シーレ。この人間を助けるのか?〉
母が問いかけてきた。私は首を横に振り、否定する。
「お前は愚かだ、人間の男。だが、くれると言うならば貰おう。お前の肉を食料として、私達に与えろ」
男は目を見開き、命を懇願するような表情を見せた。しかし言葉を発するがより早く、母がその喉笛に噛み付き、男の命を消した。
〈心は私が喰らう。後はお前達の好きにするがいい〉
母はそう言って男の腹を割いた。瑞々しい臓物が、初めて外気に晒される。拍動を止めたばかりの心を、母が飲み込んだ。
〈俺は肺をもらう。ラグ、お前はどうする?〉
兄がもう一人の兄に問う。ラグは答えず、肝を喰らった。
「私は腎を」
紅く輝く腎を喰らう。血が溢れ、私と雪を染めた。
しばらくはまた、生き続ける事ができる。人間も時に役に立つ事がある。
寒い。
来る事の無い雪解け。しかしそれでもいいと思う。
私は狼。誇り高き森と霧氷の守護者。