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らんかん山物語 @19

幕末、奄美の黒糖は薩摩藩の重要な財源だった。しかし内地の白糖(特に讃岐の白砂糖)の台頭により黒糖は値がさがり、その価値が低くなってきた。そこで島津斉彬は、内地の白糖に対抗するために近代的な白糖製造工場の建設を計画する。その設計をしたのがイギリスのトーマス・グラバーだった。

1865年 グラバーは奄美にウォートルスとマッキンタイラーというふたりの若きアイルランド人技術者を派遣し、奄美での白糖工場の建設が始まった。2年間で、名瀬の金久・宇検の須古・龍郷の瀬留・瀬戸内の久慈、4ヶ所に工場を建ててウォートルスは奄美から去った。

しかし、時代は大政奉還から明治維新、そして折りからの燃料不足や台風の影響などで奄美の白糖工場はうまく起動にのれず、1871年にすべての工場が閉鎖された。


金久の白糖工場が、このらんかん山の麓周辺にあったらしい。らしい・・というのは、なにしろ薩摩藩の「奄美圧政」の封印のために、その頃の関係資料はすべて藩により焼却・破棄されているので、今となっては当時の詳しい状況を知るすべがなにもないのだ。ただ、矢ノ脇の有村倉庫のあたりに大規模な工場があった、という説が有力なのだそうだ。

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今では跡形もないその白糖製造工場だが、当時イギリスの蒸気機関を初めて利用した日本の最初期の洋式工場で、きわめて優れた技術を取り入れたものだった。それを・・・藩はなんちゅうことしてくれるんだ。

その建設に携わったイギリス人ふたりの屋敷がらんかん山の頂にあった。もちろん今はもうない。当時、島では西洋人はすべて「ウランダ人」と言っていた。元々この山「秋葉山」という名称だったが、ウランダ人の屋敷がある山ということでいつしか「蘭館山」「らんかん山」になったのだ。

そして、らんかん山の麓の屋仁川に架かっている小さい橋がらんかん橋だ。


ウォートルスは奄美で白糖工場をつくりながら、ひとりの島娘と恋におちた。それが屋敷で使用人をしていた「マシュ」という娘だった。らんかん山で、そしてらんかん橋でふたりは逢瀬を繰り返す。しかし工場が完成したら離別の運命にあることをふたりともわかっていた。それでもふたりは逢瀬を繰り返す。

ふたりの別れを唄ったシマ唄がある。

オートロス船や
煙まきゃまきゃ
沖はりゅり
塩浜のマシュくゎや
うり見ち袖絞り
ウォートルスの乗った船が煙をまきながら沖に出て行く。塩浜のマシュはそれを見ながら涙でぬれた袖を絞る。

という唄だ。

内地に渡ったウォートルスは、その後 銀座の煉瓦街や大阪の造幣局寮の設計に携わり、近代日本建築を牽引する一人になる。

まるで、奄美で出会い奄美で別れた西郷隆盛と愛加那のようだね。西郷どんも奄美で精気を養い、そして奄美を去った後に明治維新を牽引する一人になったのだ。

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今のらんかん橋には川への転落防止のために白い鉄柵がつけられている(なにしろヤンゴが近いのでセーゴレたちがよく落ちていたそうだ)。そのため「蘭館橋」という銘板がちょうど隠れていて、これがらんかん橋なのかちょっと見では分かりづらい。とてもとても小さくて地味な橋だ。


らんかん山にはもう「蘭館」なない。が、らんかん山の物語はまだまだ続く。ウォートルスが去って約100年後の1962年、一機のヘリコプターがこの山に墜落したのだ。

墜落したのは緊急輸血用の血液を積んだ海上自衛隊のヘリだった。その大惨事で12名の塔乗員と1人の市民が犠牲になった。その犠牲者を追悼するための「くれないの塔」が、今はこのらんかん山に、ひっそりたたずんでいる。

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