泉 順義
その他 色々。
本色々。
5年前に故郷の奄美大島に戻ってきた。大嫌いだったこの島を、あらためて隅々まで見て回って訪ねて感じることにした。これまでFacebookに投稿してきた記事の再編集になります。2020.11.23
生と死と。
タクシードライバーをしていると、その狭い空間の中で様々な人生模様を垣間見ることができる。東京での7年間、そして奄美大島で5年(現在進行中)、そのあいだ書き綴ったものを「回顧録」としてここに載せていきたいと思います。 2020.11.18
県道沿いから脇へ入るとそこは小高い丘になっている。丘といっても道路から少しばかり盛り上がっいるだけで、その1000平米くらいの何にもない丘のすぐ下には砂浜が広がっている。その先に海がある。砂浜と丘の間には緑のアダンが繁り、それがふたつの空間の境界線になっている。左方に曲線をなぞったアダンの先には、森から出でた泉があの海へと繋がる砂の川を成している。 何もない休みの日は決まってこの丘に来る。だいたいが夕方の陽が沈みかける頃だ。 木陰の全くないこの丘を梅雨の合間の太陽が容赦な
明日から始まる「春のセンバツ高校野球」。我が母校『大島高校』が22日の第二試合(11:30~)で茨城の強豪『明秀日立』と対戦します。皆さんの応援よろしくお願いします。 大島高校(大高:だいこう)は2014年に21世紀枠で甲子園初出場したが、一勝も出来ず一回戦で敗退・・それもそのはず、一回戦で対戦した「龍谷大平安」がその年の優勝校なのです。でも一勝も出来なかった我が母校は「最優秀応援団賞」なるものをいただいた(そんなもんあったのか・・) 今回は21世紀枠ではなく、実力でつか
明けました。 おめでとうございます。 書きたいことは山ほどあるが、とりあえず明けましておめでとうございます。画像は冬に咲く奄美のコスモス。酔ってるうえに久しぶりの投稿なのでうまく投稿できるかどうか・・
忙しくも充実した日々を過ごしている。最近なんだか「神社」と「ユタ神」をキーワードに、自分自身が何かに導かれてるような気がする。その道標は既に4年前に存在し、色々な出会いと偶然が重なってできた道なのかもしれない。今まで「奄美大島は神の島」だと上っ面しか表現できなかったが、4年前からの出来事と今とを繋げると、どうしても神の存在を実感するしかなく、それは母の存在と奄美の大自然とも繋がり、タクシーから記者へと転職したことにも繋がり、そして横浜から来た親子が持ってきたもの、全てのものが
地元紙「奄美新聞」にて本日、記者として紙面デビューいたしました。 らんかん山にあるくれないの塔の慰霊祭の記事だ。毎年行われている式典なので過去記事がたくさんあり、それらを雛型にし参考にして書いた記事なので、必ずしも自分の文章とは言い難いものがある。 記事には一切の主観を省き、事実を事実のままに淡々と言葉を綴る作業だった。ある方から助言を頂いた「美しさ(主観や想い)を言葉に閉じ込める営み」が出来たかと言われると、全くもってなされていなかったと思う。記事を何度も読み返してみて
新聞社へ緊張の初出社。そして帰宅すると、石川監督から映画「くじらびと」のチケットが届いてた。ありがっさまりょうた。 新宿まで観に行きたいが、上映時間と飛行機の時間を考えるとどうしても会社を三日間休まなければならない。新入社員の僕は涙を飲んで断念いたします。 このコロナ禍にお薦めするのは恐縮ですが、せめてこんな映画があるんだと覚えておいて欲しい。そして興味のある方だけ勇気を持って観に行って欲しい。 僕もタイミングを見計らって観に行きたいと思います。 9月3日より公開開始で
夏だ。 ギラギラの夏だ。 8月ももう後半だが奄美大島はまだまだ夏真っ盛りなのである。 ということで、「 #夏に聴きたい曲」というお題があったので投稿することにした。夏になると決まって聴くのが奄美の同志平田輝の曲だ。とても57歳とは思えない・・いまだにパワフル。この人からいつも生きる勇気を貰っている。 「十年に一度咲く花」 ドローン撮影による圧巻の奄美大島の景色。どこまでも白い砂浜と真っ青な海。緑の岬にポツンポツンと咲き始めた真っ白なテッポウ百合。そして十年に一度しか
シェア拡散希望 自然とともに生き、命に感謝し、祈りを捧げるーー インドネシア・ラマレラ村。ガスも水道もない素朴な村に1500人が暮らす。火山岩に覆われた土地は作物が育たず、太古さながらのクジラ漁が村の生活を支え、年間10頭獲れれば村人全員が生きていけるという。 手造りの舟と銛(もり)1本でマッコウクジラに挑むラマファ(銛(もり)打ち)。村を支えるため、危険な鯨漁に挑むラマファは村の英雄であり、子どもたちの憧れでもある。伝統捕鯨の歴史は400年に及び、 “くじらびと”
ある日、思いがけぬ処に水が湧いた。水はすぐに小さな流れになり川になり僕を導いた。 59歳である。来年還暦を迎えるのである。こんな未熟者が果たして還暦など迎えていいのだろうかとつくづく思っている。40で惑わず50で天命を知るどころか、60を間近にして天命すら見つからず惑いっぱなしで恥だらけの人生だ。でも「未熟」ということはまだ伸びしろがあるのだと、都合の良いように勝手に自己解釈するのである。そして、未熟者である故にいくつになっても挑戦者でありたいと思っている。 13年間
i さんに影響されて「オツベルと象」を購入した。真っ赤な「竜の眼」になった象さんを見るためだけに・・ 前にはなしたあの象を、オツベルはすこしひどくし過ぎた。しかたがだんだんひどくなったから、象がなかなか笑わなくなった。時には赤い竜の眼をして、じっとこんなにオツベルを見おろすようになってきた。 ある晩象は象小屋で、三把の藁をたべながら、十日の月を仰ぎ見て、 「苦しいです。サンタマリア」と云ったということだ。 こいつを聞いたオツベルは、ことごと象につらくした。
二日間強風が吹き荒れた。奄美大島からはかなり距離があると思っていた台風6号がゆっくりと去っていった。いや、まだ残兵たちがわずかでも自分の存在と爪痕をここ刻もうと、最後の力を振り絞りもがいている。そんな兵士を尻目に、一気に流れゆく雲の隙間からティダ(太陽)が顔を出してきた。新たな主役の登場で、ついに力尽きた兵士は手にしていた刀を下ろし去っていった。暗転の舞台は灼熱の夏になる。 あの頃、少年たちにとって台風は一大イベントだった。荒れ狂う大自然を目の当たりにし、天からの贈り物を全
2015年11月05日 時計を巻き戻す 3時過ぎに奄美空港に到着した。飛行機を降りると、むっとする熱気が全身を覆ってきた。あぁ ここはもう故郷なんだとようやく実感した。11月なのにまだ秋ではなく、ましてや冬でもない。夏の匂いをわずかに残し、昨日まで住んでいたあの海の向こうとは明らかに違う世界がそこにあった。 18でこの島を出て30年以上、故郷のことなど何にも顧みず好き勝手に生きてきた。気がつくと倍の時間向こうの世界にいた。変わりゆく僕があった。変わらぬ故郷があった。変わり
母のことを書きたいと思った。しかし、いったい何をどのように書き始めたら良いのやら皆目見当がつかないのだ。ならばと古い日記を捲ってみることにした。それは10年以上前の出来事から始まる。 2012年05月25日:東京 朝、出社すると所長に呼び止められた。「昨日おばあちゃんから電話があったよ」 所長の言うには、そのおばあちゃん(らしき人)はぼそぼそとか細い声で、何を喋っているのかよく聴き取れなかったそうだ。どうにか判ったのは、「イズミの身内の者です」 と 「孫がいつもお世話
こ林さんに「田中一村の愛した峠」の朗読をして頂きました。私の創った作品がこ林さんの手により巣立っていきました。感謝しかありません。 こ林さん、 ありがとうございました。 こちらから聴くことができます ↓
あの日、月光に溺れたぼくは記憶の海を漂っていた。見えない月の光を全身に纏い、息苦しく深く重い漆黒の闇に己を喪いながら、散らばった言葉の欠片たちをただなぞっていた。まだ隠れたままの月が脈を打つたびに記憶の潮は引っ張られ、その引力のみで項は捲られ、一枚捲るたびにぼくは息を吐くことを遠い忘却に見ていた。18個の項を捲ると、見えないはずの月が現れ一筋のうすい光がぼくを射た。そしてぼくは無限の宇宙に放り出された。根拠などない、しかし確信に満ちたその一筋に射たれたぼくは、無限の宇宙で一瞬
岩清水は沢になり滝になり 谷を流れて、 やがて浜にたどり着く。 砂を削りながら 水の径をつくり、 そして海へと還っていく。 森に産まれたぼくは海にかえる。 故郷はいつもそこにある。