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名瀬のはじまり @18

『奄美ワールド川柳』の表彰式と座談会があった。奄美の「通り」と「道」を題材にした方言川柳。その大賞の句が、

加那よ加那
「家んくし道ぐゎ」
なてぃかしゃや

「加那」とは愛しい人の愛称。句を訳すと、「愛しい人よ、君と逢ってた家のうらの小道がなつかしいね」となる。

講義では、知らなかった「名瀬の歴史」をいろいろと学んだ。奄美がまだ薩摩藩に統治されていた幕末の時代からの名瀬の町の移り変わり。知らないことだらけの奄美の歴史だ。

名瀬のはじまりと変遷

160年前に作られた大島古図というのが存在するそうだ。それが保管されているのは奄美ではなく沖縄にあるらしい。なぜ薩摩藩がこの地図を作ったのかというと、その時代、奄美は台湾や琉球との交易拠点として極めて重要な位置付けだったからだ。

その当時の名瀬は、金久村伊津部村に民家が集中していて、このふたつの村を名瀬と呼んでいた。まだ安勝や古見本通り沿いには家がなかった時代だ。

「金久」とは、海砂が堆積してできた場所。「伊津部」とは、川砂が堆積してできた場所。「名瀬 ナゼ」とは、ナージ(無地)つまり何もない平地のことだ。この「名瀬」「金久」「伊津部」の3つの地名を持つ地域がもう1ヶ所ある。古見方地区の小湊だ。

小湊には、「名瀬勝」「伊津部勝」「金久」がある。勝 ガチとは川のことで奄美にはガチの付く地名が数多くある。「仲勝」「大勝」「勝浦」「役勝」。そして、小湊の金久は「フワガネク」と呼ばれ遺跡が発掘されたり神道があったり、奄美の歴史上 極めて重要な所なのだ。

薩摩藩は奄美を支配すると、現在の矢之脇町に役所を置いた。それが今の「名瀬の町」のはじまりだと言われている。たぶん地理的に海に近く、船からの上陸も容易だったからなのだろう。今の検察庁や裁判所 拘置所があるあたりだ。その通りが本町通りと呼ばれている。

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財政難の藩にとって奄美のサトウキビは重要な財源だった。島民は、年貢となるキビの栽培から製糖までを徹底した管理下に置かれ、厳しく苛酷な生活を強いられる。しかし、皮肉にもそのサトウキビ産業で名瀬の街は潤うことになる。製糖技術の飛躍的な進歩は、内地や琉球や他の地域にまでその技術を広めていった。

蒸気機関の技術を応用して製糖技術を開発したのが、23才のアイルランド人技師だった。当時、島っちゅは西洋人のことは全て「ウランダ人」と言っていた(オランダ人ではない)。その23才のウランダ人技師の住んでいた山が今のらんかん山と呼ばれているところだった。「ウランダ」が「ランカン」に変化して「らんかん山」になったわけだ。

そんなわけで役所のある矢之脇を中心にして、名瀬の街が賑いはじめる。そして明治時代、廃藩置県により奄美はようやく薩摩藩から解放され「鹿児島県 大島郡」になる。役所は国の機関となり金久公園の近くに移動する。それが今の大島支庁の前身の「金久支庁」だ。それにともない街の中心も矢之脇から金久に移っていった。明治18年ごろのこと。

そして明治40年代、現在のおがみ山の麓の永田町に「大島支庁」ができた。

役所が、矢之脇・金久・永田と移動するにつれ、当然 街の中心もそれに連れ添うことになる。また、当初 矢之脇や港の近くにあった飲食店やお店屋さんは、最初に支庁の出来た金久公園の近くにまとめられた。それが現在のヤンゴ「屋仁川通り」になる。

また、役所の移動とは別の繁栄を遂げた地域がある。安勝を中心とする新川沿いの地域だ。そこには大島紬の工場が数多くでき、また紬を染める「泥染め田圃」もたくさんあった。大島高校の裏側は今でも「大高泥染め」という愛称で呼ばれ、そこにある職員住宅は「泥染め住宅」と呼ばれている。

でも、繁栄の裏には必ず「陰」がある。歴史の裏には必ず隠された「真実」がある。それは知れば知るほど調べれば調べるほど根が深く、闇は果しなく暗い。その闇を、僕たちは学校では学ばなかった。当時は臭いものに蓋をしてたのだろう。僕たちは大人になってその事実その闇を知って愕然とする。まだまだ知らなければいけない調べなければいけないことはたくさんあるのだ。


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