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まだ本をマジメに読んじゃってるの?――チャラい読書法指南:『読んでいない本について堂々と語る方法』
この記事に書いてあること
マジメな読者は読んだ本についてしか語れない
本を読むことは大事だけど、本を読まないことも大事
チャラい読者は読んでいない本についても語れる
そもそも読書と無縁な人間は読んだ本について語れない
教養があるからこそ、本を読まないでもその本を語れる
教養があれば、本を読まなくてもデジャヴによって読んだことにできる
チャラい読者は「あれ? 前におれに読まれたことある?」というノリで本を読む
チャラい読書法はそのチャラさのために堂々と語ることを可能にする
チャラい読書の方法を語る本
『読んでいない本について堂々と語る方法』
この本のタイトル、何か思いませんか?
めちゃめちゃチャラくないですか?
本を読むことは、胸を張ってある本を「読んだ」と言えるかってことですよね
「堂々と語る」となると、ちゃんと読んでないと〝堂々と〟はできません
つまり、マジメに読まないと「堂々と語る」なんてできない……という考え方がふつうです
あなたが読書会に参加するとしましょう
指定された課題図書を読んでいることが参加条件です
読書会では課題図書の内容と感想を堂々と語れなければならないのです
けれどあなたは、忙しくて課題図書を読めなかったとしましょう
――あなたは読んでいない本について堂々と語れますか?
もしくはこんな場面を思い浮かべてもいいでしょう
あなたは知人からある本を貸してもらいました
貸してもらったとあれば、返さなくてはいけません
それに、返すときに何かしら感想を言えないと失礼でしょう
しかし、ついに読めずに本を返すことになってしまいました
知人はあなたに訊ねます
「どうだった? よかったでしょ?」と
――あなたは読んでいない本について堂々と語れますか?
この本――『読んでいない本について堂々と語る方法』――が語っているのはそのような場面において、マジメに本を読まないで本の感想を語れるような、チャラい読書の方法を教えてくれるのです
チャラい読者バイヤール
まず、マジメな読者に対するチャラい読者の説明をします
わたしたちにとって第一のチャラい読者は『読んでいない本について堂々と語る』の著者ピエール・バイヤールです
バイヤールはフランスの小説などを分析する文学者で、それと同時に人間の こころ について分析する精神分析家でもあります
『読んでいない本について堂々と語る方法』以外には、謎解きを楽しむミステリー小説や、読者をドキドキさせるサスペンス小説について分析した本を書いています
バイヤールの本の読み方のチャラさは、読者の感想のほうから本の内容を書き換えてしまうところにあります
ふつう、読者は小説ならずとも本全般に対して、著者が書いたものだという意識があります
だからこそ本を読むことは「他人を知る」とか「知らない世界を知る」ことができると言われます
まず本の内容があって、読者がそれを読んでいく
読んでいくと何かしら思うところがある
読者の感想は本に対して、本の内容とは別に、読者のほうで勝手に思ったことだとされます
なのでマジメな読者は本の内容を自分の感想から書き換えたりはしません
マジメな読者にとって「本を読むこと」は、〝本の内容を知ること〟と〝読者が何かを思うこと〟とは違ったものだと考えられている
ところがバイヤールはチャラいので(ぉぃ)、読者の事情から著者の小説を書き換えてしまいます
アーサー・コナン・ドイルが書いた《シャーロック・ホームズ》シリーズの有名な『バスカヴィル家の犬』
シェイクスピアが書いた悲劇『ハムレット』
たとえばうえの二つの作品で、バイヤールは、著者によって与えられた登場人物の役割を書き換えてしまいます
さながら、探偵としての著者の推理結果を点検する警察のような読者になり、読者の読み方のほうから本の内容を書き換えてしまうのです
ね? チャラいでしょ?
マジメな読書ってどういうこと?
マジメな読者とチャラい読者についてを確認しました
次にここではマジメな読書とは何かを見ていきます
本を読むとき、多くのひとは始めから終わりまで一本の線をなぞっていくように読み進みます
一ページ目の次は二ページ目に眼を通します
同じように第一章の次は第二章、第一部の次は第二部で、第一巻の次は第二巻というふうに
多くのひとは、読書をするとき、当然のようにそういう読み方をします
それはほとんどの本への興味が「続きが気になる」という感情によって読まれるからです
そうした読書への姿勢は読者にとってありきたりなものでしょう
いわば、マジメな読書は〈本の内容〉すなわち〈作品の世界〉の全体を見渡す地点に登っていくような営みなのだと理解されているのです
そのような読書観は「読んでいない本について堂々と語る」ことへの抵抗感の根拠にもなっています
本について語るためには、その本の全体を見渡せる高所に登りつめなくてはいけない
だとすれば、その高所にたどり着くためには一歩一歩、もしくは一段一段と順番に進んでいかなくてはなりません
ようするに、テキトーに開いたページを読んでみたり、そのときの気分で読む章を選んだりといった、つまみ食いならぬつまみ読みができないのです
つまみ読みができない
つまみ読みをすることに抵抗を感じてしまう
そういった読書観は実にマジメなものです
バイヤールの言葉を引けば、以上のようなマジメな読書観には、空間的なイメージがあります
全体を見渡すことのできる地点がどこかにあると考えて、そこを目掛けて読み進んでいく
では、マジメではない読書観とはなんでしょうか?
つぎにそれを確認してみることにします
チャラい読書ってどういうこと?
マジメな読書観では、始めから終わりまで一頁一頁と読み進めていくことで、ようやく全体を見渡すことができるのでした
それはつまみ食いならぬつまみ読みをすることに抵抗感をもたらします
そのような読書観がマジメなものなのでした
しかし、バイヤールが「読んでいない本について堂々と語る方法」と言うときには、マジメな読書を勧めるのではありません
バイヤールはチャラい読書観を教えてくれるのです
では、チャラい読書とはどのようなものなのでしょうか?
本を読むことのマジメさが、「本の内容〝を〟読むこと」なのだとしましょう
だとすれば、チャラい読書は「本の内容〝で〟読むこと」なのです
本を読んでわかるのは〝どこかの誰かが何を感じたのか〟でもありますが、それよりむしろ、〝本の内容を読んだ自分が何を感じたのか〟が重要です
そこで読まれるのは本の内容なのではなく、本を読んだ読者自身なのです
本を読むことによって、自分自身という本を読むことになるのです
マジメな読書では自分の感じたことよりも、〝この本が何を言いたいのか〟ということに焦点が当てられます
しかしそれだと、読んだ本について語る場合にも、その本に書かれてはいないことは語れなくなってしまいます
ところがチャラい読書では、重点が〝この本が何を言いたいのか〟ではなくて、〝この本で自分は何を言いたいのか〟のほうになるのです
一見、それは身勝手な姿勢に見えます
しかしそもそも読書というものは、本の内容を読者の頭の中にコピーすることなのではありません
うまくコピーできずに、ミスコピーになってしまうことのほうが、読者と本の関係をよく表します
どれだけマジメな読書をしても、読者と本のあいだには、いつも曇ったガラスがあります
ガラスが透明ならばはっきりと本の向こう側が見えますが、曇っているのでぼんやりとしか見えないのです
それが読者と本の関係なのです
ガラスが曇る理由は、そのときそのときの読者の関心の違いや、思い出せること、忘れていること――さまざまです
ほとんどの場合に、わたしたちが読んだ本について思い出そうとするときには、一言一句全ページが思い出されるのではなくて、切れぎれの断片的なイメージでしかないのです
だからこそ、マジメな読書観が想定する読書空間はあいまいなものになります
つまり、その本の内容の全体を見渡すことのできる空間的な高所のイメージは成立しないのです
マジメに読んでさえあいまいなものになるのなら、チャラい読書が許容するあいまいさも、さして不道徳だとは言えないでしょう
たとえば、テキトーに開いたページを読んでみたり、そのときそのときで別な章を読んでみたってかまわない、そんなチャラい読書をしたっていい、というわけです
以上のようなチャラい読書観には、マジメな読書観の空間的なイメージに対して、時間的なイメージがあります
つまり、その本を語ろうとするタイミングで思いつくことの肯定です
チャラい読書観では、全体を見渡すことのできる地点がどこかにあると考えて、そこを目掛けて読み進んでいくのではなく、律儀な読み方をしなくてもいいから細く長く本と付き合うことが大事なのです
チャラい読書の真意
本について語ること
さて、ここまで『読んでいない本について堂々と語る方法』の著者であるバイヤールの文章は引用してきませんでした
本文から少し引用して、彼の読者としてのチャラさが目掛けるところを見ていくことにします
ようはここまで書いてきたことを、著者の文章と付き合わせてみようというわけです
バイヤールは読者がある本について〝語る〟ことに注意を払います
そしてマジメな読書観での空間的なイメージと、チャラい読書観での時間的なイメージとを引き合いにして、次のように述べています
ある書物について語るということは、その書物の空間よりもその書物についての言説の時間にかかわっている。
うえに引用した文章では、ある本(書物)について語ることは、本の空間よりも、本についての時間にかかわってくるのだと書かれています
筆者なりに言い換えますと、ある本の全体を見渡す場所を探すのではなくて、ある本と付き合う時間を持つことが、読者にその本についてよく語ることを可能にするのです
また、バイヤールは「批評家」という立場を引き合いにして、本について語ることが本当は何を語ることになるのかを説きます
文学や芸術の役目は、批評の対象となることではなく、批評家に書くことを促すことである。というのも、批評の唯一にして真なる対象は、作品ではなく、自分自身なのである。
「批評」という難しい言葉を使ってはいますが、ようするに〝語る〟ことです
バイヤールは、本について語ることは読者が読者自身を語ることなのだと言うのです
文学や芸術の役目は、〝語ることをさせるもの〟
そのようにバイヤールは考えるのです
いわば、読者が本を批評しているつもりでも、実際は、読者自身が本によって批評されてしまっているのです
読んでいるつもりが読まれている
だからこそ、読者は語らずにはいられない
自分自身を書かずにはいられないのです
教養を持つこと
本について語っているつもりが、読者自身を語っている
そのことをバイヤールは以下のように書いています
言説をその対象から切り離し、自分自身について語るという、多くの作家たちが例を示してくれた能力を発揮できる者には、教養の総体が開かれているのである。
「言説」というのは〝考えたこと〟くらいに読めばいいでしょう
対象についての語りが自分自身を語る語りになっている
多くの作家たちが示す能力は、作家の個性と言われる部分が「文体」と呼ばれる事情に掛かってきます
文体とは、〝考えたこと〟を文(対象)にして語るなかで、いつの間にか語っているひと自身の個性を語ってしまっているというものです
重要なのは、本について語ることが自分自身について語ることだという認識が、「教養の総体」へと開かれることになると述べている点です
ここまで触れませんでしたが、〈教養〉はチャラい読書法の伝道師であるバイヤールにとっても重要です
〈教養〉はマジメな言葉です
しかしバイヤールの考える〈教養〉は、チャラい読者にも通じるところがあります
バイヤールは、〈教養〉は本と本とのあいだに走る連絡通路を把握する能力だと述べ、次のように説明しています
教養があるとは、しかじかの本を読んだことがあるということではない。そうではなくて、全体のなかで自分がどの位置にいるかが分かっているということ、すなわち、諸々の本はひとつの全体を形づくっているということを知っており、その各要素を他の要素との関係で位置づけることができるということである。
重要なのは個々の本なのではなく、すべての本を含んだひとつの全体を思い描けるかどうかなのです
堂々と語ることに重点を置く読者にとって、〝どの本を読んでいるのか〟にこだわるマジメさは、むしろ〈教養〉を形成するためには不利益ですらあります
チャラくとも、いろいろな本に手を出していることの方が、偏りのない〈教養〉を持てるでしょう
別の言葉で言えば、〈教養〉のためには、マジメな読者が陥る〝始めから終わりまで〟の堅苦しい読み方よりもチャラい読者が行う〝つまみ読み〟のほうが健全なのです
「教養の総体」とバイヤールが述べるとき、再び「読んでいない本について堂々と語る方法」というタイトルが思い浮かびます
読者にとって〝読んでいない〟ということは、ある本について〝堂々と語る〟ことをできなくさせるものでした
しかしバイヤールが〈教養〉と言うときには、個々の本を読んでいるのかいないのかは、あまり重要ではありません
重要なのは自分が語ろうとしている本が、他の本との関係――本の全体性のなかで、どのような意味を持っているのかがわかる、ということです
注意しておけば、『読んでいない本について堂々と語る方法』は、「読書と無縁な人間」と「本を読まない人間」とを分けています
読書と無縁な人間は〈教養〉とも無縁ですが、本を読まない人間はそうではありません
ここまで来て、「読んでいない本について堂々と語る方法」の真意が明らかになってきました
読んでいない本について堂々と語る方法とは、きちんと読んでいなくても他の本との関係の総体と照らし合わせることで、堂々と語ることのできる〈教養〉を持つということなのです
つまり、ある程度は読むことに時間を掛けないといけないというわけです
自分自身を語ること
「読んでいない本について堂々と語る方法」は〈教養〉を持つことによって実現する方法なのでした
しかしバイヤールが促すチャラさは、単に「〈教養〉を持て!」と熱血漢のように主張するのものではありません
もう一度、さきほどのバイヤールの言葉を引用してみましょう
言説をその対象から切り離し、自分自身について語るという、多くの作家たちが例を示してくれた能力を発揮できる者には、教養の総体が開かれているのである。
バイヤールが〝多くの作家たち〟と言うとき、そこには読者が〝自分自身を語ること〟の大切さが説かれています
作家が自分自身を語る能力がある、というのはいいでしょう
作家に対して何か文章仕事を頼むときに、依頼者が期待しているのは作家自身の語りです
では、自分自身を語ることが教養の総体に開かれるというのはどういうことでしょうか?
さしあたっては、教養のあるなしは〝どれだけ読んているのか〟よりも〝どれだけ語れるのか〟によって判断されます
いくら読書量を誇ってみても、何も語れなければ教養があるとは思われません
「自分の意見を持て」と言われるのも、言い換えれば、〝他人に語れるような自分〟を持っているかと問われているのです
つまり、教養の総体に開かれるのは、自分を含めた何かしら対象についてを語ることにおいて、となるのです
ようするに、何も語れなかったり、ぼそぼそと何を言っているのかわからないようではいけなくて、〝堂々と語ること〟こそが重要なのです
自分含めた対象を語る能力によって、〈教養〉があると判断されるのだとすれば、マジメな読者になってコツコツと著者の言葉を眼で追い、その内容を語ることにも間違いがないようにと慎重になってしまうのは、あまりにフットワークが重いのです
むしろチャラい読者になってチャラい読書をすることの軽さのほうに、〈教養〉は宿ります
すなわち、本を読むのにも多くのページを読まないことを選ぶことができ、他人に本の内容を語るときでさえ、著者の考えを間違って伝えることさえ怖れないような、そんなフットワークの軽さにこそ、教養の総体は開かれているのです
だからこそバイヤールは、「読んでいない本について堂々と語る方法」というチャラい読書法を、マジメに語ってくれるのです
とはいえ、それは読書と無縁な人間になることではありません
読書と無縁な人間にはそもそも本を語る能力など期待できないでしょうから
〈教養〉を持っているからこそ、本について語れるのです
〈教養〉があれば、どんな本にもある種のデジャヴ(既視)を感じることができます
読んでいない本について堂々と語ることができる人間は、そのようなデジャヴによって〝堂々と〟読んでいない本について語れるのです
バイヤールが読んでいない本について堂々と語る方法として、〈教養〉の言葉を持ってくるのはうえのような理由なのです
デジャヴで読むことはチャラい読書法です
ナンパ師が女の子に「あれ? 前におれに会ったことある?」と声を掛けるように、読んでいない本にも「あれ? 前におれに読まれたことある?」と語っちゃうのですね(笑)
いかがでしょう?
たまにはチャラい読書、してみませんか?
_了