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「データ分析」を分析する―組織の進化論からの再定義

「21世紀の石油採掘」としてのデータ分析

72年ぶりに新学部として「ソーシャル・データサイエンス学部」を設けた一橋大学のニュースは大きく取り上げられたが、AIブームとも重なり合いつつ、データ分析ブームは目下ますます勢いを増している。

一橋大学ソーシャル・データサイエンス学部⻑の渡部先生は、学部ホームページで次のように述べている。

現代は「ビッグデータの時代」と言われるように、様々な大量のデータが入手可能です。こうしたビッグデータは「21世紀の石油」と呼ばれ、そこから有用な情報を抽出するデータサイエンスは社会から注目を集めています。

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一橋大学 ソーシャル・データサイエンス学部公式ホームページ

ビッグデータが「21世紀の石油」であるからには、そのデータをマイニング(mining:採掘)して資源として利用可能にするデータ分析の営みは「21世紀の石油採掘」といったところだろう。

素晴らしいビジネスチャンスである。経済組織としての「大学」も当然このチャンスに乗らない手はない。大学の専売特許である「サイエンス(science:科学)」のラベルを貼ってサービスのブランディングを行っているわけだ。やっていることはMBAの焼き直しなのでノウハウも十分蓄積されており、実に合理的でローリスク・ハイリターンな商売である。

筆者自身もビジネスマンの端くれであり、ましてデータ分析と親和性の高いEC業界に身を置いているのだから、素直にデータ分析ブームに乗って小さなサービスでも始めれば少しは儲かりそうなものである。が、いつもブームに対して斜に構えてしまう「ひねくれた性格」が災いして、少数派になってしまうのだ。

ひねくれ者らしく、本稿では「データ分析」を分析してみたい。

データの価値

冒頭の「データは21世紀の石油」という表現から明らかだが、データは資源のカテゴリーで捉えられている。「ヒト・モノ・カネ・情報」という表現も同様である。価値を生み出す材料ないしエネルギーの最新版がデータであり、最新版の資源の加工処理方法がデータ分析ということであろう。

ではなぜデータを分析することで価値を抽出することができると考えられているのだろうか。これは論者によって異なる回答が得られそうだが、「定量的で客観的な根拠を提供することで、人間の思い込みや勘を排した合理的な意思決定を支援することができるから」といった辺りが一般的だろう。価値ある仕事をする機械を駆動させるから石油に価値があったように、データは価値ある意思決定を可能にするから価値がある、ということだ。

筆者の立場としては「データが意思決定を支援する」という部分は賛成なのだが、「データが合理的な意思決定を支援する」まで言われてしまうと異論がある。

合理的な意思決定の限界

そもそも合理性それ自体が科学哲学上の議論のある概念であって、ここから批判することもできるのだが、それは筆者の力量を大きく超えている。もっと卑近な論点からのアプローチで満足せざるをえない。

意思決定の責任を負ったことのある実務家であれば誰しも経験があるだろうが、それが重要な決断であればあるほどデータ分析はあまり決め手にはならなかったのではなかろうか。思い出してみれば、データそのものが存在しないことも多かったはずである。

重要な意思決定とは、逸脱的な選択肢の是非を問うものである。逸脱とは、現状からの逸脱である。これまでにやったことのない施策をやるのかやらないのか、今までのやり方を変えるのか変えないのか、全く新しい発明を製品化するのかしないのか、そういった意思決定である。

真剣な意思決定の場面で直面するのは、対象の「新奇さ」に由来する不確実性である。新奇であればあるほど、そもそも分析に相応しいと見込まれるデータは存在しなくなる。あるいは、過去のデータの分析から見いだされた「合理性」が通用する可能性は低いように感じられる。

「データが合理的な意思決定を支援する」という言説は、裏を返せば合理性が通用するような領域でしかデータは意思決定を支援しないということでもある。この言説は結局のところデータの価値を信じているのではなく、合理性の価値を信じているのだ。意思決定を支援するからではなく、至上の価値としての「合理性」の顕現を支援するから、データに価値があると言っているに過ぎない。

しかしながら重要な意思決定とは、合理性の領域の外に関わるものである。

組織の進化論と逸脱的な意思決定

したがって本当にデータを「21世紀の石油」たらしめる資源活用の途を模索するのであれば、「合理性の影としてのデータ」とは異なるデータ観が必要になる。

その有力な候補として、データおよびデータ分析の進化論的機能に注目することができるだろう。結論を先取りすれば、データは逸脱的な意思決定の蓋然性を高めるところに、その機能が存しているのである。

組織の進化における重要な課題のひとつは、いかに逸脱的な意思決定を促進するかということである。組織がどんなに合理的で計画的な意思決定をしようが、それが成功するとは限らない。ふつう「偶然」として認識される要因の影響を受けるからである。私たちはつい最近コロナ禍という全世界を巻き込んだ偶然に直面したばかりなので、この点は実感を伴って理解できるはずだ。

「変化する環境への適応」であろうが「さらなる事業の発展」だろうが、ともかく現状を変えることを試み続けなければならない。しかし現状の変更は多かれ少なかれコストがかかるので、「サイコロを振って決めよう」というわけにはいかない。現状への抵抗という手間のかかる意思決定は、積極的に動機づけられる必要があるのだ。

レトリックとしてのデータ分析

この点、データおよびデータ分析は、独特の方法で逸脱的な意思決定の動機づけとして機能する。データとは、現在の時点にいる観察者が過去の方を向いて撮影した写真である。被写体の選び方や画角はもちろん、シャッタースピードや絞りまでコントロールされた、悪く言えば作為的な、良く言えばクリエイティブな「作品」である。そしてデータ分析とは、作品(データ)を題材に事象に関する因果論的な物語を語ることである。

このようにデータもデータ分析も濃厚に恣意性を孕むものでありながら、しかし客観的な装いをまとって語られる。ある特定のデータが得られたのは、実際にそのような過去があったからである、というわけだ。データの根拠は過去の方に求められ、観察者の創造性は隠ぺいされる。また、データを数学的に処理して得られた洞察の客観性は、素材たるデータの客観性と、手法たる数学の客観性によって裏書きされており、そのデータと分析手法を選択した恣意性も隠ぺいされる。

したがってデータおよびデータ分析はフィクションとしての客観性を操るレトリックであり、説得の技法である。データが無ければ思いもよらなかったであろう新奇な洞察が「発見」され、データ分析によって発見された洞察を活かした逸脱的な意思決定が動機づけられるのであり、これが組織の進化を促進する。

つまり、「データが合理的な意思決定を支援する」からではなく、「データが逸脱的な意思決定を支援する」から、データやその分析に価値があるのである。このようにデータの価値を再解釈することで、合理性の領域の外、すなわち革新的で不確実な、重要な意思決定の場面に、データとデータ分析の位置を見出すことが可能になる。

結論:データの時代に向けて

データ分析に批判的な態度から書き始めたが、実は筆者はデータの価値を高く評価しているのである。だからこそ、合理性という古い概念の影に過ぎないものとしてブームになっているのが腑に落ちないのだ。データやデータ分析は、合理性の外でも機能するのだから。

データ分析が逸脱的な意思決定を動機づけるメカニズムとして機能することで、それがなければ試みられなかったであろう様々な可能性が試みられることになる。実施された施策は、これもまたデータ分析によって評価される。一部の施策は再現性のあるものとして「技術化」され、データ分析がなければ単発で終わったはずの施策が様々な場面で反復適用されることになる。もちろんこの過程で、うまくいったり、いかなかったりする。新たな技術は新たな誤謬を可能にし、それがまた新たなデータ分析のテーマとして扱われることで、さらに新たな技術をうんでいく。

データ分析は、それが裏切られることによってより豊富なデータを産出し、したがって以前より多くのデータ分析が必要になる。「21世紀の石油」は、汲み尽くされることのない資源なのである。

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