追悼 生命の最期まで使命感で仕事をした森永さんー 天国で安らかにお眠り下さい
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余命宣告を自ら発表して、亡くなる前日まで、癌の痛みに耐えながら、ラジオ出演を果たした森永卓郎さん。彼の仕事・功績はあらゆるところで評価されています。亡くなった日にすぐ追悼の意をFacebookに出しましたが、今日まで彼のことを書くのに、涙が止まらず、ショックで時間が掛かりました。
思えば、このnoteに、「出る杭は打たれる」シリーズで、彼が病気になる前に、「戦友」として三井系の伝統あるシンクタンク(think tank「頭脳集団」と訳します)でご一緒に働かせて頂き、彼は「経済研究室」で、私は「地域計画研究室」で、それぞれ死ぬ程働き、この時代はライバルが野村総研、三菱総研の2社で、銀行や生保などの金融機関がこぞってシンクタンクを設立したのですが、三井を含む3社は昭和42年頃に設立されており、花形研究員へのスカウトが盛んでした。
三井では、2人で赤字続きの総研を黒字にした喜びを共有しましたが、森永さんが最期に仰っていた「資本主義はいずれ終わる」という言葉の中に、私達が各々研究企画書を書き、中央省庁から受託研究をライバル社に負けずに取ってきては、プロジェクトリーダーとして年間15本、2人だけで売上3億近くなのに年収は700万円。達成すると、上層部は翌年度その120%を期待する。自分で自分の首を絞めるやり方は、お互い、心身共に疲弊しきっていました。そして出た利益なので、発言権はありましたが、1本も受託研究を取れず、まともに報告書を書けない研究員が殆どで、森永さん曰く「俺達が食べさせてる」感覚も、ストレスの大きな要因でした。これでは、働かない研究員と給料がほぼ変わらない、社会主義国のようではないですか。
森永さんは、仕事のスタイルも変わった方で、総研に寝泊まりし、夕食にはカップ麺を段ボールで大量に購入し、深夜に泊まりがけで仕事する研究員達に100円で売っていました。それを、お金を払わずに食べてしまうS氏には酷く怒り、それでも明るい笑顔で仕事の出来る彼はユーモアがたっぷりでした。 「田中美子の研究」などをして、驚かせてくれました(笑)。私がチェックし、議論を重ね、その延長戦上で森永さんの処女作『悪女と紳士の経済学』が出版されたのです。その処女作の後書きには、「社会学者田中美子氏に感謝する」旨書いて頂きました。 私は女性なので、流石に深夜タクシーで帰宅しましたが「どうしてお家に帰らないのですか?」と質問すると「だって、家にいるとお腹の上で(子どもが)トランポリンするのよ〜!眠れないでしょ!」と。その時の、お子様が今森永J r.として立派に活躍しているのを見ると、時の流れを感じます。そんな仕事人間でしたから、病気のことを明かした後「初めて家族と花見に行った」というエピソードも頷けました(笑)。 森永さんは銀行系のシンクタンクへ、私は生保系のシンクタンクへ転職しましたが、それ以降も講談社の副編集長と3人でお会いするなど、交流は続きました。 その結果、私の講談社の雑誌に依頼原稿を書かせて頂くことになったのですが、その聡明な副編集長は、見た目も仕事もできる方だったのに、厳しい労働環境で、ストレスも多かったのでしょう。哀しいことに、50代になる前に癌で逝ってしまいました。一時は復帰しかけたのに。
森永さんは、末期の癌であることを発表した後、彼は「東京には行かない」「人とは会わない」書いてはいけないことを、全て書き尽くして、財務省の問題も公表して、逝ってしまったのです。ニュースステーションで、話の天才久米宏さんとテレ朝に出てからは、女性問題に気をつけろ、と言われたと余り会えなくなりましたが、使命感に燃えて反体制派を貫いた森永さん。
森永さんの本を読んだ方々が、今、「財務省を解体しろ」とデモをしてますよ。生き様のカッコ良い人でした。お疲れ様でした。天国で、ゆっくりとお休み下さい。 合掌