#4 中村哲先生の仕事を考える〜アフガニスタン紛争との関わりを中心に〜(2023)
こんにちは、ご覧くださりありがとうございます。
記念講座TAを務めておりますS.L です。今回は2023年10月25日に行われた「中村哲記念講座」の第4講の様子についてお送りしたいと思います。
1. グループワークについて
この授業では、中村哲先生のなされた仕事の意義を学び、中村哲先生の志を受け継いでいくために自分たちに何ができるのか、考えた成果をプレゼンテーションで発表します。
今年は特に「彼は何を見て何を感じ何を考えたのか」という視点から考えます。
受講生3~4名, TA1名でグループをつくり、5グループに分かれて考えました。
2. 歴史的背景
グループワークに入る前に、歴史的背景を学びました。
18世紀~20世紀のアフガン社会を考えるにあたって鍵となるのは
近代化政策 です。
英国(英領インド)とロシアの勢力争い(グレート・ゲーム)や、第二次世界大戦後の米国とソ連の争いの中、近代化、社会主義、イスラム主義の間での対立・葛藤がくりかえされます。
例えば、1919年の第3次イギリス・アフガン戦争によりイギリスから独立した後の近代化政策は、反乱を招きます。
1927年にその混乱を抑え、イスラム色を強めたナーディル・シャー国王は、1933年に暗殺され、その後のザーヒル・シャー国王の従兄弟ダーウード首相による親ソ連急進的な改革のなかで、反発に対する弾圧が行われます。
政府はクーデターによる政権交代、派閥闘争を繰り返し、イスラーム勢力への粛清と農村地域への急進的な改革、それに対する抵抗の中、1979年ソ連軍が介入し、さらに戦乱が続きます。
アフガニスタンの隣のパキスタン(ペシャワール)には、もともと人為的に引かれた国境線を越えて人々が往来していましたが、アフガンでの内戦が本格化すると、多くのアフガン難民が流入しました。
1989年のソ連撤退時には軍閥ができます。1990年代前半からは、アフガン国内の各派の争いによる内戦がはじまります。
1990年代半ばにイスラームへの回帰による秩序回復を訴えるタリバンが勢力を伸ばしはじめ、1990年代終わりにはアフガン全体まで影響を及ぼします。アメリカ軍が撤退する2021年まで、20年に及ぶ内戦状態が続きました。
このような状況下にあった2001年から2004年, 2014年ごろのペシャワール会報が、今回の資料でした。
※ 授業に使用したペシャワール会報:69号(2001)、76号(2003)、124号(2015)、136号(2018)
※ 参考資料➡:自衛隊派遣は有害無益 国会衆議院テロ対策特別委員会での参考人発言(冒頭部分)(『空爆と「復興」』石風社、2004)
3. グループワーク
<<中村哲先生は対テロ戦争について何を見て、どのように考えたのでしょうか。>>
グループディスカッションでは、中村哲先生が感じていたのは、ズバリ、「怒り」ではないか、ということが軸に話し合われました。
日本政府やアメリカに対して、強い言葉・口調で批判しているように受けとったという意見や、情報に左右されたり、立場にこだわったりしている人に対する憤りがあったのでは、という意見が出ました。
ディスカッションを続ける中で、前回(中村哲記念講座 第3回)のディスカッションと関連して、中村哲先生は「注目されていない場所で苦しんでいる人たちを助けたい」という想いが共通していたのではないか、という気づきを得た受講生もいました。
グループを超えて行われた全体共有では、
「関係ない人間を巻き込むな」という怒りを感じていたのではないか。
内部の情報を知っている中村先生は実情の一部だけが報道されていたこと、同時にアフガンの実情が伝わらないことに怒りを感じていたのではないか。
苦しんでいる人たち(アフガンの人々)がアメリカ軍によってさらに苦しめられる不条理に対する怒りだったのではないか。
というような声が上がりました。
また、中村哲先生が参考人として呼ばれた国会での発言との差に注目したグループもいました。
どのグループでも「怒り」がキーワードとなったようです。
<<中村哲先生の述べられた「豊かな知恵」とは何でしょうか。>>
私TAのS.L の担当していたグループでは、「豊かな知恵」とは
絶望的状況の後で分かった「本当に守るべきもの」
目先の利益だけではなく、今後百年を見据えた「復興の仕方」
人間を大事にする「善意」
希望と平和の基礎「多くの人々の協力」
など復興の過程で見えてきたものを指しているのではないか、という意見があがりました。また、前回の事前資料に書かれていた、中村哲先生の感じられていた「孤独」とは当時の情報のバイアスに惑わされず俯瞰的な視点を持っていた中村哲先生と(メディアの情報に左右される)周りとのギャップの中で感じたものだったのでは、という気づきも共有されました。
ディスカッションの中で、中村哲先生が指した「日本人」とは、当時日本でアメリカの支持をしている人たちも念頭に入れていたのだろうか、という疑問も挙がりました。
他のグループでは、
ペシャワール会報76, 2003 (3⾴1段)でアフガニスタンが「」で区切られていることに注目し、(タリバンが怖い、などの)一般的なイメージと現地の状況を知っている中村哲先生にとってのアフガニスタンに差異がある可能性を指摘し、「豊かな知恵」とは粛々と現地事業を営む人がいかに重要か分かってくれるのではないかという希望を指しているのではないか
ということがディスカッションを通して見えてきたそうです。
4. 次回予告
前回に引き続き2回目のグループディスカッションでは、受講生が自分の意見を発することや他の意見に耳を傾けることに慣れてきたように思われました。
次週、第3回目のグループワークは、資料をもとに、中村哲先生が用水路事業に取り組んでいた時期を取り扱います。 本講座も折り返し地点を迎え、受講生が一連の講座の後に残るものが一粒でもあるように、TA として私も改めて気を引き締めて参りたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。来週もよろしくお願いします!
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