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#2 活動を続けてこれたのは、自分の強さではなく、気弱さゆえのことだ


皆さんいかがお過ごしでしょうか。
中村哲先生記念講座でTAをしております、H.Hです。

中村哲先生記念講座は、今年度より九州大学に新設された講座です。
九州大学医学部のOBであり、長きにわたってアフガニスタンとパキスタンにて、医療活動、灌漑事業など現場に根ざした支援活動に尽力された中村哲先生の生き方にふれて、中村哲先生がやってこられた仕事の意味を理解し、それと同じ意味をもつことを自分がするにはどうすればよいかを、講演やグループワークを通して考えます。

講座の概要の詳細はこちらをご参照ください。

今回は記念講座の第2回の様子をお届けしたいと思います。第2回は60分講演、30分質疑応答という構成で行われました。


1. 石橋学長からのビデオメッセージ

今回の講義の冒頭では、本講座の開講を記念して、弊学学長の石橋達朗先生よりメッセージをいただきました。中村先生が活動を通じてこれまでに九州大学にもたらした知見や学びについてご紹介された後、結びに受講生に向けたメッセージを下さいました。

「科学技術の進歩やグローバル化の進行に伴い、失われ行く考え方などがたくさんあります。昨今の新型コロナウイルス感染症の影響でも、人々の繋がりが途絶えるなど、中村先生のご活動の中で大切にされてきた多くのことが今こそ重要になってきていると感じています。この講座を通じて中村先生のご活動や考え方について理解を深め、何かを学び取って欲しいと思います。さらには、中村先生の生き様を捉え、次世代に繋いで行くことは、本学の使命であると考えています。受講された皆さんが、他の友人たちにこの学びを広めてくれることを期待しています。」

2. 村上優先生のご紹介

今回、講師を務めていただいたのは、中村哲先生の長年の活動を支えたペシャワール会で現在会長を務めていらっしゃる村上優先生です。

村上先生は、九州大学医学部を1974年(昭和49年)にご卒業され、中村哲医師が医師としてスタートを切った国立肥前療養所(現国立病院機構肥前精神医療センター)に中村先生の後輩として入って以来の中村先生と親交を深めておられました。ある時、中村先生に登山に誘われ、パキスタンの地を踏んでから5年後、83年にペシャワール会結成時には中心的役割を果たし、中村先生の最も身近な相談役でいらしたそうです。現地パキスタン・アフガニスタンへは何度も訪問もしており、同会事務局長を経て、4代目会長に就任されました。2019年12月PMS総院長の中村医師の跡を継いで現在に至ります。また、医師としての村上先生は精神科医として複数の病院で勤務され、アルコール・薬物依存の医療・支援や司法精神医学分野を専門とされています。

国内、現地を問わず、中村先生を支えてこられた村上先生が、長く側から見てきた中村先生の真髄を語ってくださいました。

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3. 講演の内容

中村哲とはどんな人?
講演は、「中村哲とはどんな人?」というテーマから始まりました。
村上先生から見た中村先生は、とても多彩な顔をお持ちのようでした。

自分たちで立てた病院に固執せず、やるべきことを進めた自由の人
義の人、利他的な人
陰徳を積み、行動を起こすことで、周りの人々を魅了した統率力を持った人
自分の専門に囚われず、科学的な知見を持って問題を乗り越えていく人
人生を通して天を仰ぐ人であり、数々の教えを実践する人
虫が好きで自然への洞察を忘れない人
非戦を最重要としていた人

中村先生の生涯を振り返りながら、様々なエピソードを交えてお話しされていました。一つひとつが中村先生のお人柄を形作っている要素であることを実感できました。

中村哲はなぜ活動を20年も続けたのか?
続いて、講演は中村先生のご活動の背景に迫るテーマに移ります。
中村先生が過酷な環境の中、現地活動にこだわり、20年もの歳月をかけて支援を続けられてきたのでしょうか。中村先生を知る人であれば、一度は疑問に思うことかもしれません。
村上先生は仰いました。
「意図して20年活動を続けたわけではない。目の前に現れる困難に愚直に向き合っていた結果、それだけの歳月が流れていたということです。」
中村先生が生前のとある講演で話されたという逸話を用いてさらに紐解きます。中村先生は宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」の内容を、深く受け止められていたそうです。
「遭遇する全ての状況が『天から人への問いかけ』であり、人として最低限守るべきものは何かをゴーシュは伝えてくれた。ゴーシュの姿が自分に重なって仕方ない、とそう言うのです。活動を続けてこれたのは、自分の強さではなく、気弱さゆえのことだと中村先生は考えていたのです。」

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医療支援から灌漑事業、そして農業へ
さらに、話は中村先生の多彩な支援活動についてへと広がっていきます。
「現地へ行った当初は、『命を支える』と言って、無医村での診療所から始めました。ところが、大旱魃(かんばつ)が起こり、現地の人々は治療どころではなくなっていったのです。まず、明日飲む水の確保さえ難しい。そのような状況で、黙って見ていると言ったことは中村先生にとっては人殺し同然だったのです。」
そうして、中村先生の活動は井戸事業へと展開されていったのです。
しかしながら、旱魃の影響はそこに留まりませんでした。現地の人々はほとんどが農業で生計を立てていたので、命を支えるには、農業を支える必要があったのです。そうして、灌漑事業、延いては新たな農作物の模索へと活動の幅を広げていったのでした。

マラリア大流行にみるペシャワール会の転機
続いて、話は1993年のマラリア大流行に対する現地とペシャワール会の活動にフォーカスが当たります。
当時、現地では内戦が激化しており、名だたる国際機関やNGOが支援の手を引き上げて、多くの難民で溢れかえっていた時期でした。そこで起きたマラリア大流行に、村人たちはパニック状態だったそうです。なんとしてでも流行を食い止め、人々の生活を守るために、中村先生はある決断をします。それは、抗マラリア薬の使用です。その時は副作用などが危惧され、積極的に使うことは躊躇われいました。医師たちの会議が長引く中で、中村先生から檄が飛びました。
「議論は聞き飽きた。命が先だ。根こそぎやってしまえ!」
この決断で、多くの村に薬が届けられ、村人たちの混乱は次第に静まっていきました。しかし、最後の村に着く直前で、薬が底を尽きてしまったそうです。さらに、ペシャワール会の資金も底を尽きようとしていたのです。お金がないことで支援が制限されることに、非常に悔しい思いをされたそうです。これまでは医療法人などの大口の支援で資金を賄っていたそうですが、資金集めにもより力を入れなければならないと、ペシャワール会も行動を起こします。中村先生は帰国後、一般の方々に向けた募金キャンペーンを始めました。新聞各社が報道し、数千万円もの寄付が集まり、マラリア治療への介入が再開できたのでした。

中村哲の内なる怒り
本講座では受講生に対して課題図書が与えられていますが、村上先生はそこに含まれていない本にも、中村先生の人柄を垣間見ることができると言います。特に、「ダラエ・ヌールへの道」「空爆と『復興』」には、中村先生の「怒り」が色濃く描かれているとのことです。なかなか語られてこなかったことではありますが、中村先生の行動の背後には怒りを持っていたのだそうです。それは、「不条理に対する怒り」や「 貧しい人をほっといていいのかという怒り」だったと言います。中村先生は、幼少期は論語を繰り返し読まされ、中学生の頃に自ら望んでクリスチャンに。学生時代は仏教にも触れる機会があり、その度に「愛を持って人々に接する」という教えが染み込んでいったのです。そんな中村先生は、現地に腰を据えそこで起こった出来事を洞察する中で、利己的な国家間の衝突や現地を顧みない国際支援のあり方、さらには世界中で起きていた環境破壊にまで思いを馳せていました。静かに怒りを持って「誰もしないこと、誰も行かないところ」と我が道を突き進む原動力にしていたのです。

ペシャワール会のこれから
中村先生が凶弾に倒れてから、1年半が経ちました。これからのペシャワール会はどこへ向かっていくのでしょうか。最後に、現会長である村上先生から現在のアフガニスタンでの支援について話していただきました。
中村先生は生前より、長年培った灌漑事業と農業技術をアフガニスタン全土へ広げていくことを次なる目標にしていたそうです。ペシャワール会では、その遺志を受け継ぎ、さらにJICAやアフガン政府と一丸となって活動拡大を行なっていくのだそうです。特に、2021年は、アフガン政府が警告を出すほど、旱魃が非常にシビアな年ということで、一刻も早く取り組む必要があるのだそうです。
こうして、非常に密度の濃い60分間のご講演は終了しました。


4. 質疑応答

講演後は、受講生からの質疑応答の時間を取っていただきました。
質疑応答でも非常に盛り沢山の内容でしたが、一部をご紹介します。


Q. 中村先生は非常に謙虚で多くを語らない方だったというお話がありましたが、どういう人柄が周りの人を巻き込んでいったのでしょうか?
A. 事業に関してはきっちり行なって、その報告は基本的に公開していました。その中でも特に活動を支えていたのは、中村先生の文才、表現力だと思います。これがなかったら、やはり伝わっていなかったのではないでしょうか。ペシャワール会としても会報をとても大切にしていました。会員からも好評でしたし、事態を掴むのにはとても重宝されました。そして一つ一つの講演です。ペシャワール会の職員は何回も聞いているメッセージではありましたが、やはり一回一回聞くたびに響くものがあったので、より多くの人を巻き込むことができたんだと考えています。

Q. 中村先生は「不可能を可能にしよう」という意気込みで活動をされていたのでしょうか。あるいは、「すべきことはすべからく可能である」という信念を持っていたのでしょうか?
A. 初めから可能だと確信してやっていたことはなかったです。毎日が試行錯誤の連続でした。最初のPMS病院を立てるまでに10年かかっています。牛歩な時もありましたが、諦めずに目の前を一つずつクリアしていき、少しずつ前に進んでいきました。

5. 次回予告

以上が第2回の講座内容になります。村上先生、この場をお借りして御礼申し上げます。
第3回になる次回は、PMS支援室長兼院長補佐でありペシャワール会理事、そして今年フローレンス・ナイチンゲール記章に選出されました藤田千代子さんにご講演いただきます。中村先生を看護師と言う立場から長年支えてきた女性としての立場で、現地での出来事をより詳細にお話しいただきます。
では、また来週!


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