性欲が強いのは悪なのか
こんにちは、Dr.K(ドクターコージ)です。
某国会議員が真摯に謝罪しまくってますが、「素敵な異性に惹かれる」と言うこと自体は、生物として自然なことですし、世の中の男女は多かれ少なかれ感じていることです。
推し活してる人達の中には、男女関係なく純粋に人間性に惹かれて推してると言う人も居るかも知れませんが、一部には推し対象を程度の差はあれ性的な対象として意識してるファンもいるはずです。
とは言え、綺麗な人に対して「お綺麗ですね」「ハンサムですね」と言うのは、言われ慣れてたりするので、またかよ、と思われるのが関の山だったりしますし、最近は「セクハラ」とされるリスクもあるので、心の中で「素敵な人だな」と思っていれば良いんです。
ヨーガ、仏教、道教、神道などの古い教えの中で、「性エネルギーは生命エネルギーである」として、神聖視されたり重要視されていました。
タントラヨガや、道教の導引術、密教仏教などでは、女性は自然からエネルギーを無限に吸収出来、女性から性エネルギーを受け取ることで、男性も若さを保つことができる、と言う考え方がある、と言う情報もあったりします。
とは言えそれらの教えは、「不特定多数の女性と性行為をしまくった方が良い」と言うことでは無いんですよね。
そもそもですが、サンスクリット語において、タントラは緯糸(よこいと)と言う意味であり、経糸(たていと)と言う意味のスートラと対になってる単語です。一般的な経典は「スートラ」と呼ばれ、密教の経典は「タントラ」と呼ばれていた歴史があります。
ですから、解脱を目指す為により深く修行をする為に心身をコントロールしていく「裏ヨガ」的なものが「タントラ・ヨガ」なんです。
その様な考えの中で、「性」は神聖視されますが、乱行を勧める様な教えでは無く、むしろ耽溺しない様な節制が大切にされます。
文字が読めない信者に向けて、男性名詞「ウパーヤ」で表される「方便」と女性名詞「プラジュニャ」で表される「智慧」とのバランス、融合が大切だと言う教えを、「裸の男性と女性が寄り添っている絵」を使って表現したのが、時代を経るとともにエロス要素の強い描写をする人達が居ただけの話で、「男女間のセックスが崇高な修行であり、獣の様に交わるのが良い」と言う訳では無いんですよね。
そもそも物理的に性器を擦り合わせることをしなくても、観想上でエネルギー交換をするだけで十分だとされていますし、タントラ修行をするレベルの人達は、それが当たり前に出来るんですよね。むしろそう言う瞑想の方が、肉体的なオーガズムより遥かに気持ちが良いそうです。
同じことで、「顕教」と呼ばれる一般的な仏教の思想の場合には、我々の生きている世界は「諸行無常」であり、全ては変化して苦しみのもとになるとして、「一切皆苦」と表現され、現世は「穢土(えど)」として穢(けが)れているとして、浄土を追い求めたり、仏様に浄土に連れて行って頂く為に修行などをすることで功徳を積む、と言う発想になっている訳です。
一方で「密教」と呼ばれる仏教の場合は、解脱を目的にしたより深い修行を行うと言う意味ではタントラ・ヨガと同じで、諸行無常とは言え、釈迦は「一切皆空」としている。と言うことは、そもそも全ての物は実体が無い「空」であり、そもそも永遠不滅の穢れる主体は無いという事で、全ての物には慈悲や智慧が宿っており自性(本質)は清浄(清らか)であると考え、この世自体が浄土であり、即身成仏が出来ると考えた訳です。
そう言う考えの中で、世間一般で穢れているとされている「性」も本質は清浄なんですよ、と言うことを解いたお経が存在しているのですが、誰も「セックスしまくって浄土に行って解脱しようぜ」とは言ってないんですよね
そして、ヨガにせよ道教にせよ密教にせよ、「煩悩を否定したところで、解脱に至ったり幸せには慣れない」と言うことで、煩悩を受け入れコントロールしながら、解脱に至ると言う発想になっています。
煩悩に執着して耽溺してしまうのは良くないですが、受け入れるが執着せずコントロールする、と言うことが大切だよー、と言うことなんですね。
性欲が強いと言うことは生命エネルギーが強いとも言える訳ですが、それを否定せずに受け入れた上で、無駄に発散し消耗するのでは無く、適度に発散させながら、その他は生命エネルギーとして昇華させることで、より良く生きる手助けにしていくのが、良いのではないかと思います。
という事で、件の某国会議員も、「妻以外の女性に惹かれると言う煩悩」を否定せずに受け入れ、適度に発散しながら性エネルギーを昇華させた上で、議員として素晴らしい活動をして欲しいと思いますが、どうなることでしょうね。