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マカオの街

マカオは中華人民共和国の特別行政区であり,香港と同様に「一国二制度」の原則の下にある.


マカオの歴史

1550年代初頭,ポルトガル人が澳門に辿り着いた.内港の入口に寺院があり,そこは地元民から阿媽湾(アマガオ)と呼ばれていたが,ポルトガル人はこの呼び名を真似て,それが徐々にマカオという名に変わった.その後,ポルトガル人は,広東省の官吏の許可を得たうえで短期間に,中国,日本,インド,ヨーロッパ貿易の主要な中継港となる街を築き上げた.

ローマカトリック教会は,フランシスコ・ザビエル(マカオ周辺で亡くなった)の業績を引き継ぐために宣教師数名をマカオに送り出した.教会,大学,さらに要塞を築き上げたことから,マカオには今なおヨーロッパの歴史的外観が残っている.

マカオでは,ポルトガルのライバルであったオランダやイギリスの貿易勢力が次第に強くなったが,中国人はマカオで引き続きポルトガル人と交易することを望んだ.ところが,1841年のアヘン戦争の後,香港がイギリスの植民地となったために,多くの外国商人はマカオを離れ,マカオは僻地と化した.

過去のマカオは織物,電機,玩具などの産業によって発展を遂げたが,現在ではホテル,リゾート,MICE施設,レストラン,カジノなどの観光業が主たる産業になっている.

コタイ(Cotai):大型カジノホテルの密集地

コタイは,マカオ南部のコロアネ島とタイパ島を繋ぐ埋立地で,2つの島の名前からコタイと名付けられた.当初は住宅地中心の埋め立てであったが,現在は高級ホテル,カジノ,リゾート施設を中心にした都市計画が進められている.

ラスベガスを彷彿させる,欧州都市を再現した超大型カジノホテルが並び立ち,中国本土からの観光客で賑わっている.

The Venetian Macao(澳門威尼斯人)
The Parisian Macao(澳門巴黎人)
夜のパリジャン・マカオ
The Londoner Macao(澳門倫敦人酒店)
夜のロンドナー・マカオ

マカオ(Macau):中国本土と繋がる中心地

マカオ半島の中心に点在する20以上の歴史的建造物と広場が,集合遺産「マカオ歴史市街地区」として2005年に世界遺産登録された.数は多いが,狭い地域に集まっているので,歩いて見て回れなくはない.

マカオ・タワー

マカオのランドマーク.2001年12月19日にオープンしたマカオ・タワーの高さは338mで,スカイ・ウォークではタワーの外側を歩くことができる.

マカオ中心部の高層ビル群

個性的な外観のビルが多い.ド派手なのも.

セナド広場(世界遺産)

マカオの街の中心で,最も人気のある広場.民政総署や三街会館(関帝廟)のすぐ近くにある.セナド広場はパステルカラーの新古典様式の建物に囲まれている.

セナド広場(世界遺産)

多数の中国国旗.

聖ドミニコ教会(世界遺産)

1587年に,メキシコのアカプルコから来た3人のドミニコ会スペイン人修道士によって建てられた教会で,ロザリオの聖母が祀られている.

ナーチャ廟(世界遺産)と旧城壁(世界遺産)

神童ナーチャを奉るため,1888年に建立された小さな伝統的中国寺院.これも世界遺産.

ナーチャ廟の左手にあるのが,ポルトガル人居住エリアを守るための城壁の遺跡.マカオでは,特に土砂,ワラ,牡蠣の貝殻を混ぜて,木製の枠に流し込んで押し固めた「シュウナンボー」という地元の技術および材料を使用して城壁が作られた.

聖ポール天主堂跡(世界遺産)

聖ポール天主堂跡は,1602年から1640年にかけて建設され,1835年に火事で崩壊した聖母教会とその隣に建てられた聖ポール大学跡の総称.当時の聖母教会,聖ポール大学,およびモンテの砦はすべてイエズス会による建築物であり,マカオの「アクロポリス」のような存在だったと考えられている.聖ポール天主堂跡のファサード(正面壁)はマカオのシンボルとして街の祭壇のような存在となっている.日本語なら聖パウロだろう.

ここは観光客がとても多かった.

居住地

聖ポール天主堂跡から少し離れると,このようなアパートが密集して建っている.庶民の生活の場という感じ.

ギア要塞(ギア教会とギア灯台を含む)(世界遺産)

1622年から1638年にかけて築かれた要塞.要塞内にあるギア教会は,聖クレア修道院を建設する前にギアの丘に居住していたクラリスト修道女によって建立された.教会の隣に建つギア灯台は,1865年に中国沿岸初の近代的灯台として建てられた.ここからはマカオ市街を見渡すことができる.

ギア要塞(ギア教会とギア灯台を含む)(世界遺産)からの眺望
ギア要塞(ギア教会とギア灯台を含む)(世界遺産)からの眺望

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