愚痴を聞いてしまう自分〜幼い頃の記憶から
こちらは、下記の記事の続きです。単独でも多分読めます。
友人の愚痴をたくさん聞いていた自分。それは友人のせいではなく、自分がそうさせている。思えば、今までの人生の中で、かなりの確率で人のぐちをどうしても聞いてしまう、そんなことが多かった。
なぜそういう人を引き寄せてしまうのか、ということに気づいて、衝撃でした。
目を背けたい幼少期
単純な話。愚痴を聞いてしまう人というのは、幼い頃から、親にグチを聞かされて来た人が多い。という・・。
・・・・
これは、まさに当てはまっていた。
認めたくないけれど・・・
最近では、毒親という言葉もあるみたい。
大好きだった母は、幼い頃から私に、祖母(母にとっての姑)、父親(母の夫)、そのほか、近所の人やいろいろな人の愚痴やら悪口やらを、私に延々と話していた人だった。
夫婦喧嘩も絶えず。何度も、母が出て行く!という場面もあったように思う。
親同士が、大げんかして心細い思いや、怖い思いを何度も何度もした。
兄は、いろいろなことで、父に叩かれたり、怒られたりしていたこともあり、それがとても怖かったのも、ぼんやり覚えている。
幼稚園、小学生くらいの時の記憶。
大人になって子供を持つ今の今まで、そのことについては、「大人の事情」として理解していたつもりだったけれど、今思えば、そういった恐怖や悲しみなどを、押し殺していたのかもしれないなあ、、と思った。
小学生、中学生の頃の写真、私は、笑っていないのが多いのはそのせいなのだろうか?わからない。
小さい時から親に愚痴を聞かされると、自分の感情を受け止めてもらうのが親なのではなく、親の感情を受け止める役割を引き受けることになる。その結果、人の感情を受け止めることがスタンダードになってしまい、そのことが、自分の存在意義を証明する手段になってしまう。
私は、いつしか自分の存在意義を、人の感情を受け止めることで証明しようとしていたのかもしれない。
承認欲、認めてもらいたい思い、それが、人の感情を受け止めることとなって現れる。
・・・・つまりそうやって、自分が役立つことを人に証明することで、承認欲を満たしていたのだろうか。
酷い言い方をすれば、人の感情のゴミ箱となること。それは、自分を大事にすることとは違う。
このことを考えていると、ちょっと胸のあたりが吐き気みたいな感じがする。
それと同時に、あー、もう、人の愚痴聞く必要ないんだ!っていう開放感も。理由が少し理解できた気持ち良さとか。