猫を探す目だった。
2022/05/04
國友公司(2021)『ルポ 路上生活』KADOKAWA、読了。
読んだここに、喉元をザクッとやられた気がした。
自分くらいの年代の男が駅前に布団を敷いていたらやはり目立つようで、不思議そうな顔で見てくる人もいれば、「この人には何か深い事情があるのでは」といったような懐疑と憐みが混じったような顔で見る人もいる。主に前者は男性、後者は女性が多い気がした。p.107
子宮がんをやめたと話しはじめたとき、相手が女性だと、お互い、「女だから」という油断と不躾が私から思慮なく出てしまっていた。
もう元気だから、もうなんて事もないの。そうなのね。なんか感じが変わっちゃって。あ、これウィッグなの。ああ、そう。
話をする私も、それを聞いている相手の表情も、お互い、無意識なのはわかっている。相手の心配そうな表情、これ以上の会話を避ける間合いから、それらを喚起しているのは自分であることに気づかされてギョッとする。
大変だったでしょう?と皺を寄せた眉間。それは憐み、憐憫、思いやり?
その表情を生み出す感情、真意を一瞬で読み解けるエスパーでは残念ながらない、私も。ただ、やはり自然に思いやりに段差ができてしまうんだな、と感じる。
この本の著書である國友さんは、ホームレス生活を実践するなかで体感する差別や排斥をルポルタージュしている。若い國友さんを「見る」目線にある蔑みを敏感に嗅ぎ取り、それをつぶさに言語化している。
冒頭に引用した國友さんの文章を読んで、ありありと思い出す光景が二つ。子宮体がんサバイバーになったことを知らせたときに、私に向けられる目線。そして、2022/04/09に山谷にはじめて、炊き出しのアウトリーチに出向いたときに私がしていただろうと私が想像できる、自分の目線だった。
隅田川沿いで会うはずだった、炊き出しのカレーをいつも受け取ってくれるという人が、席を外していた。「いつもそこにいるんだけれど」と言われた先の草むらを見たときの自分の目の向け方、視線の向け方が、まさに、野良猫を探す目だった。
気づいて、自分で自分が情けないなぁと思った。
できるだけ、フラットでいたいと切に私はいつも望んでいる。しかし、はじめてお会いする人たちに、段差なく接することは本当に難しい。
私が尊敬している山谷の看護師は、表情をすぐに変えない。しかし、敬意が払われていると感じられる。
その人は、山谷のおじさんたちが互いに、「先輩」と呼び合っているのだと教えてくれた。これを聞いたとき、その場の人間同士の距離感を知りたいと私は思った。
次に行ったとき、「先輩」と呼び合う人同士だったり、カレーを受け渡しする人同士の目だったりに注目して、感じてみよう。
そのときに、野良猫を探す目よりは、ましな目ができていたら御の字である。
写真は、04/09に会った人にもらったオーストラリア土産というキーホルダー。もらいっぱなしもつまらないので、次に会えたら銀座若菜の名古屋みそ漬け卵をお土産に渡したいと思っている。
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