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母が亡くなるということ

 最愛の母が亡くなりました。
 8月28日、夏の暑さが少しだけ和らいだ日、巨大台風が日本を横断するのではと日本中が騒いでいた日です。

 1年前の3月くらいから、空咳のような、あまり聞いたことが無い咳を頻繁に母がしだし、気になった僕は再三と医者で検査してくれと、それこそ土下座までしてお願いして、渋々と医者嫌いの母が検査を受けたのは3か月後の5月も半ば。
 検査結果は、肺小細胞がんステージⅣ(他臓器に転移)余命1年無いと言われました。
 
 医者の診断としては手術は出来ず、それでも定期的な抗がん剤投与による治療をすることに。
 幸いとまだ母に体力があったこと、抗がん剤との相性も良かったのか、治療は比較的よく、最初の半年は特に目立った問題も無く、抗がん剤の副作用もなしで無事、新年を迎えることが出来ました。
 その間に、日帰りではありますが、何か所か母と旅行したりすることもできました。
 母は毎年、年明けの時に、自慢ののっぺ(新潟の郷土料理で、里芋を中心とした根野菜、鮭などを薄味で煮たもの)を作るのですが、我が家の分と親類の家の分まで作ったほどでした。

 ところが今年のGWに入る直前に骨への転移と、それにともなう股関節の骨折が見つかり治療のために入院。
 それは何とか治療しましたが、抗がん剤を変えたところ、副作用が強すぎ、髪がボサボサと抜け(本人は、これが一番ショックだったようです)食べ物が上手く呑み込めない、嘔吐感などが続きました。
 3回目の抗がん投薬をしようと8月5日に入院しましたが投薬する前に間質性肺炎を発症。
 その治療をしている間に原発の肺がんの進行がすすみ、8月25日に治療を諦め、鎮静剤で楽になることを選びました。
 個人的には1か月くらいは大丈夫かなと思っていたのですが、それからはあっという間でした。8月26日に担当医を交えて3人で話し、1時間くらい話し、金銭的な話をして、僕の着ていく喪服が無いから買っておけよというのが最後のキチンとした会話でした。
 8月28日、最初は見舞いに行くつもりもなかったのですが、何となく心配になり、仕事を中抜けして病院に向かっている最中に、「危篤です」との病院の報が。
 駆けつけてみると母は息も絶え絶えで、僕を見ると、苦しんでいる姿を見られたくないのか「もういい、来るな」と言いました。
 それが11時過ぎ。
 それから5時間後、16時に息を引き取りました。
 
 母の思い出や、闘病中にあったことはまだまだ色々あり、それに関しては、自分の悲嘆を整理し、癒すためにも記しておこうと思っておりますが、ひとまず母に関しては「今までありがとう、楽しかったよ」と改めて言葉として残しておこうと思います。
 
 加えまして、これを読んでいただいた皆様が、どれだけいるかは分かりませんが、お願いがあります。
 先にも記しましたが、母の病が発見される前から、おかしな咳をしているという兆候がありました。
 本人が分からなくても他人に言われ、分かることもあります。
 もちろん自覚症状もあるかと思います。
 どうぞ、少しでもおかしいなと思ったら、あるいは周りの人に言われたら、迷わず病院に行ってください。
 そして、1年に1回は健康診断に行ってください。
 少しでも早く病気が分かれば、その分、生きる時間も増えると思います。
 貴方のためだけではありません。
 貴方の周りの貴方にとって大事な人が悲しい思いをしないために。
 切にお願いします。
 こんな悲しい思いをする人が少しでも減りますように。

お読みいただきありがとうございます。 よろしければ、感想などいただけるとありがたいです。